ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む

ピエール・ブルデューという社会学者がいた。社会学においては泰斗だというのだがいままで知らなかった。

こんなことがよくある。

そんなとき自分の不勉強を恥じる気分になるのだが、名前だけは知っていても、その人が何者か、つまり中身をまるで知らない人物がいくらでもいる。

その気になれば、いまは便利な機械があるので簡単に調べられるのだが、それをやっていたら話の本筋を見失いそうなのでしない。そうするといつまでたっても何回も目にしたり耳にするだけの、名前しか知らない人物のままなのである。

人物だけにかぎったことではなく、歴史、地名、そのほかあらゆるジャンルにおいてである。人にそんなことも知らないのか、という顔をされることもある。


あるいはまた、そういう教養的な事柄ではなく、日常のことも、特に最近のことに疎い。長いこと電車に乗らないので今の切符の買い方がはっきりしない。テレビでチラと見かけたところによると、改札を通り抜ける時、客は切符を持っていなかった気がする。カードを何かにかざしていた。それが切符の替わりらしい。買い物の際のレジもそういう按配になってしまった風だ。そういう風景を気にしながら現金で済ます。やがて現金は通用しなくなるのであろうか。

 だが、なにかにつけ、知らないことがあるのを、そう気にしたり、負い目に感じることはないと思っている。出かける用事がないからしばらく出かけないでいると、私に断りもなく、いつのまにか、そうなっているのだから。


この世はある意味、単純といえば退屈するほど単純にも感じることもあれば、逆にいやになるほど複雑といえば複雑。その森羅万象を知ろうといくら勉強してみたところで、人間の限られた人生の持ち時間では到底足りない。つい、誰でも知っている事柄でも知り漏らしてしまうことが誰しもあって何の不思議もない気がする。



さて、このフランスの学者の代表作「ディスタンクシオン」の要旨を一言にいえば、「趣味、嗜好を個人的な個性と捉える向きもある。そうかもしれないが、しかし、それ以前に趣味、嗜好というものを持てるための素地つまりは経済的なゆとりのあるなしの方がだいじで、根本原因だ。

 貧乏な家に生まれた者、及び貧弱な教育環境しか与えられなかった者は高尚な趣味、嗜好を持とうにも、それを知り、理解し、そして味わえるまでになれる可能性が非常に低い立場にある。恵まれたものはその逆である。」

ということになる。

 たしかにクラシック音楽一つとっても、その通りである。自分で作曲するまでになるほどの才能を持って生まれた者がいる、といったところで、その境遇、環境に恵まれなければどうにもならない。どうにもなっていないはずだ。

つまり才能のあるなしを言う前にその前提のあるなしの方が大事だとブルデューは主張する。


 その通りだと思う。私もこの「論理の果て」の他の章で何回も同じ趣旨のことを書いている。20世紀を代表する学者に対し僭越な言い方だとは思うが「我が意を得た」気がする。趣味、嗜好だけに限らず、人間界の万象に当てはまる。社会学において応用範囲の広い理論だろう。

 私が思うに、自分が自分であることにおいて、自分が自分で選び取った要素は何ひとつない。

どこの国に生まれるか。フランスか、日本か、はたまたどこか。男か女か。金持ちの家か、そうでないか。言えばきりがない。煎じ詰めれば何もかもなのだ。

日本のむかしの庶民も、そのあたりの如何ともしがたい、生まれながらの不公平、人の世の理不尽さを独り言をいうようにひとこと「親は選べない」と言った。

 庶民の子に生まれたフランスの学者ブルデューも同じ思いを込めて、こちらは学者であるから学術として表現したのだ。

 それが大多数の庶民の読者の琴線に触れ、大ベストセラーとなった。




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