ここでの話はここだけのはなし


 誰しもそうだろうと想像するのだが、すぐ近所にはいないだろうがあるいは知り合いにはいないだろうが、知り合いの知り合いくらいには天皇陛下から頂いたなんとか褒賞を持っている人が一人はいるのではないだろうか。

その人の話を聞くと、「あれを貰うと決まったときは、そりゃあ、うれしかったものだが、貰いに行くためにかかった旅費やらなにやらで、かなりの出費だった。あれをもらうのも苦労がある」と貰った者しか味わえない苦労話を披露するのだが、では貰わなければよかったと思っているのかと顔の表情をうかがってみる必要はない。

こちらが聞いたわけでもないのに話だしたところをみると、まんざらでもないのはわかりきっている。


 私には無縁のことがらなのだが、自分のとりとめのない来し方、そしてそう長くはない行く末を思うときにおこる無力感、虚無感も、もしああいうたぐいの表彰状を晴れがましい場所でもらったりすれば、いくらかの気休めにはなるのかもしれないな、などと想像してみたのである。

 しかし、その思い付きも、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。

どんなものであろうと人間、それが自分のものになり手に取った当座はうれしいが、瞬く間に元々持っていたものと同列の色褪せたものに成り下がってしまう。

 その理屈からいうと物とはいっても紙切れ一枚、いやトロフィーくらいは付くのかもしれないが、そんなもののうれしさがどれだけ持つか。

容易に想像がつくし、なにより自分のしたことの価値は自分が一番知っている。自分自身の「身」についての客観性は人間は持てないことになっているが、自分の為した行為、仕事については冷静に評価ができる。つまり自分をごまかせない。

国内のなんとか賞ではなくノーベル賞をもらった人間でさえ自殺した例がある。その自殺は世間ではいまだに謎とされているが、手に入れたものがたとえノーベル賞であろうと自分のものになったとたん色褪せ、仕事の中身も人がどう評価しようと自分は自分をごまかせないのだ。


 人を、つまり人間を顕彰するということについて考えてみる。

有史以来、いまに至るまでにいったい何十万、何百万いやいやもっと桁外れの数の人間が顕彰されてきたことだろう。世界史に残っている人、国内では誰もが知る有名人、あるいは勲章や褒賞などの斯界における功労者、市町村で碑など立ててもらっている人もいる。そういう人たちをあえてひとくくりにするとすればやっぱり「偉い」人と呼ぶのだろう。

死んで後の人はそういないだろう。大部分は生きているうちから称賛の嵐を浴びる。

生きているうちだからこそ意味がある。本人を嬉しがらせるためにあるのだから、理屈は合っている。

だが、生きているうちになんとか功名を得、「偉く」なった人も、向こうへは、たぶん持っていけないだろう。全員ではないだろうが、持っていきたい人はずいぶんいるだろうが仕方がない。

私も確認したわけではないので断定はできないが、おそらく向こうという場所が存在しないだろうから。

 私も向こう、すなわちあの世は、あってくれればいいという思いはある。ただし、ここよりひどいところは困る。ここより安楽なところであればのはなしである。

だが、残念ながらないだろう。

ないのだから、ここでの話はここだけの話でお終いとなるのだ。


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