物事のまんなかにあるもの

時間はこころができたので出来たのではないか。

心が時間を感じたのではないのか。




もう死んでいるのに自分が気がついていないだけ、そんな感覚が、ふと起こる。

自分だけ特別なはずはないので誰でも、きっと、そんな一刻があるのだろう。




1億年後はほんとうに来るのか。

千年後なら少しは・・・。

いや、やっぱり、少しも・・・。

あの大木が樹齢千年、と聞いてもどうしてもうまく感じがつかめない。




哲学を考えようと思ったことはない。

だが、答えのとうてい得られそうにないことを考えるのが哲学だという。

では、私の考えているのは哲学なんだろうか。

とうてい思えない。




気晴らしに何かする、という。

いまはストレス解消、というのか。

私は気晴らしに何かしたことがない。どこかに出かけたことはない。

要らぬ世話だが、人はあれで、ほんとに気が晴れるものなのだろうか、という気がする催しがずいぶんある。

群れ集う必要のある、あれこれについては、特にそう思う。




よその銀河の星人は、きっと人間のいう時間というものを時間とは言わないだろう。

何というか、とにかく人間とは捉え方がちがう気がする。

説明すれば愛想で「ああ、わかる、わかる」とあいまいな合槌を打ってくれはするだろう。おなじ空間でつながっている者同士なのだから。

たぶん、「なんとなく」だろうけど。



一番の肝心はなにかと考えていくに、物事のまんなかに据えるのは

「人間の感情」だというところに行きついた。

道徳、社会システムなどあらゆる分野のまんなかに、という意味だ。

もっといえば

理性さえも感情の下部にすぎないという実情を、認めづらくともはっきり把握するところに人間の次のステージが生まれる。

むろんコンピューターなどの機具類は、そのための勝手のいい道具と見做すべきだろう。

徒然草を読み返しているうち、そんな思いが浮かんだ。




うわっつらと分かっていても上っ面を撫でないことには、目の前のなにごとも愉しめる訳がないことは分かってはいる。

いまの今も、不運、不遇の奈落にいる人がこの地球上に、いくらいることやら。なんでこんなに難儀な目をしなければならないのかと生まれてきたことに恨みを持つ人がどれだけいることやら。

あるいは、もはや不運のまま死んでしまった人の数は、有史以来いったいどのくらいになるのだろう。気が遠くなり、言葉も出ない。

ひと歳いき、そんな人の世の無常を知れば、たとえ成功者といえども、その成功の度合いが大きければ大きいほど、後ろめたさも大きいはずだ。いや、大きくあるべきに思える。

だが、残念ながら、そうでないのは判り切っている。

ほんの一例だが。選挙で当選した候補者が万歳をしているのをテレビのニュースでよく見る。なにがそんなにうれしいんだ、と訊けば、世のため人のために働く機会を得たことを喜んでいるんだ、というだろう。

それをいうなら、何か成果を上げたときにやってくれと言いたい。

いっしょになって万歳をしている取り巻き連中よ。なにがそんなにうれしい。

多少の余得はあるのだろうが、おそらく大したことはあるまい。

あの万歳を見るたびに胸糞が悪くなるのは私一人だろうか。


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