意識あるものが意識するから世界がある、宇宙がある、この世がある
意識ある者がいなければ、この世が在ることに誰も気づかなかった。
意識ある者が存在しなければ、たとえば太陽があろうとなかろうと、太陽系があろうとなかろうと銀河系があろうとなかろうと、たとえ宇宙に星という形のある物体がなくて、ただ空間のみであったとしても、つまり宇宙がどういう有様、状態であっても、そうだからといって誰も一向に困らない。
なぜなら、誰もいないのだから。
誰もなにも知らないのだから。
太陽もいつかは燃え尽きる。たとえ太陽の終わり方がどんな風であっても、太陽の周りを廻っている星は当然、巻き添えになり地球も、元々の、宇宙空間を漂う塵と化す。
全宇宙の星々もそんな塵の離合集散の繰り返しのなかの、謂わば仮の姿であって、いつかは元の塵に戻り、宇宙空間を漂うという運命は定まっている。
星々のなかで、よく光っているのは人間の遠目にはなにやらきれいに映っても、じつは大きな塊だった星が、星の形でとどまっておれない事態が起こり、大爆発して砕け散っている真っ最中で、やがて木っ端となりそこら中の宇宙空間に拡散する。それもやがて、塵となり、もっと小さい細かい単位の物質と化し、宇宙空間を漂うのだ。
つまり、状態変化しただけのことで、地球上の石や土塊が風化によって砂になる状態変化と同じことといえば、同じこと。
だが誰も見ているものがいなければ、形を成していた星がいままで、「そこにあったこと、そして、なくなったこと」を誰も知らないのである。
あるいは、そのことに因って、周りの星やら何やらが、なんらかの影響を受けたとしても、どこかに誰か困る人がいるだろうか。
こんな譬え話はどうだろうか。
『離れ小島に暮している人たちがいた。だが、なにかの災難でみんな死んでしまった。
島には誰もいなくなった。
だが、そのことを誰も知らなかった。
なぜなら、陸にも誰一人住んでいる人がいなかったので誰も知りようがなかった。』
宇宙内のどこで何が起きようと誰も興味を持つ者がいない。
誰もいないのだから。
たとえ宇宙が丸ごとなくなっていても誰も見ていないのだから、なくなっていても誰も気が付かない。
意識を持つ人間だけがひとり寂しがるのだ。
よく宇宙のどこかの星に生命体がいるものか、どうかと話題にする。
あれこれの方法で調査もしているようだ。
宇宙の世間は広いのできっといるだろう。
だが、その生命体はたぶん、我々の想像を超えた存在だろう。
姿かたちとか科学技術、文明の発達具合とかはともかく、私は精神世界の有り様がまるで異質のような気がしてならない。
また、そうあってほしい。
間違ってもSF映画にあるような、埒もない理由で人間と争うような、つまり価値観の持ちようが、どんぐりの背比べではがっかりである。
人間を含め、地球の生き物はたしかに知れば知るほど驚くほど精巧にできている。
だが、残念ながら肝心なところに不具合な要素がある。
不具合な要素はほかにもあるが、一番厄介なのは精神を司る神経回路の不備だろう。
際立って問題なのは人間の争いごと、戦争のやめられない癖である。有史以来、絶えず地球上のどこかでやっている。
それは、生まれながらに攻撃的な性格を持った者、あるいは軍事指導者の起こすことで、平穏な市民、国民は常にいい迷惑を被っているのだ、と人ごとのように言えるだろうか。
そういう訳で、どこかにいる異星人には、人間の精神の現状を超えた存在であってほしいと願うのだ。
だが、超えた存在という言い方は人間世界の通俗の、いつもの比較思考であって、そうではなく、極端に異質な者同士ではないかということ。
つまり異星人はまるっきり人間とは比較のしようのない精神世界にいる生命体だろうと想像するのだ。
身体の仕組みが違えば当然、思考、意識が違うはずだから。
1+1=2 という共通認識は持てるかも知れないが
その人たちは、ものごとが面白くもおかしくもないとしたらどうだろう。
つまり、感情というものがないことはないが、我々とはまったく異質な感性の持ち主の可能性である。
感性が違えば、生きている者同士という連帯感を持ち合うのは期待できないかもしれない。
すると初対面は我々人間同士のときのような、「やあやあ、これも何かの縁だ。仲良くしましょう」という雰囲気も生まれないだろうが、場がシラケるとか、そんなことは気にしないようにしよう。
あるいは、もし、かれらが死なない身体だったらどうしたものか。
「もののあわれ」はわかってもらえないだろう。「もののあわれ」はやがては死にゆく定めにあるものの儚い感慨なのだ。
それどころか死なないという流儀を獲得した者はもはや「生きている」という意識がないのかもしれない。
生きているという意識がないのは、すなわち、意識を持たないことを意味するのか。
すると意識というものを持つのは、もしかしたら宇宙広しといえども我々人間だけなのか。この宇宙を認識し、興味を持つのは人間だけということになる。
宇宙内の異星人が皆、そんな流儀だとしたら、人間がこの先なにかの事情で絶えたなら、宇宙を知る者が誰もいなくなるが、それは、いったい、困ったことなのか、どうなのか、はっきりしない。
いや、はっきりしている。
意識を持つ者がいないのだから、誰も困らない。
誰もいないのだから。
※ 宇宙論のなかに意識を論じているものも昔からたくさんある。
いくつか読んでみたが専門の学者の論だから、むずかしくて私にはよく理解できなかった。
上記で私の述べたことは、本で学んだことでも人から聞いたことでもなく、子供の頃からずっと私の頭の中で、謂わば癖のように反芻してきた思考を書き留めたものである。
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