美人に湯灌(ゆかん)をしてもらっても本人は判らない

こんなことを思うのは私一人だけだろうか。

いや、きっとそうだろう。

誰からもきいたことがない。

というのは。

「誰の世話にもなりたくない。最後まで自分の世話は自分で。」

というはなしはよく聞く。

ほぼ無理なことだろうが運よく、それに近い死を迎えた人はいるだろう。


 ところが私の気兼ねなのはその先。

先といっても骨になって壺に入れられた後は、入れ物の壺よりもはるかに軽くなって、もう、そう人を煩わす存在ではなくなっているわけだが、私がくよくよ取り越し苦労をしているのは壺に収まるまでの間だ。

 

 いとこが確か50歳ちょうどで死んだ。

律儀な男で親戚の葬式には必ず出ていて、また何くれとない気配りのできる性格だった。

だから、式場で彼の顔をみつけると、いつも安堵していた。

その日も式場でいつもの癖で会場に彼の姿を探した。

おや、いない。

ああ、そうか死んだのは彼なんだった、と気づくのに少し時間がかかった。

 いとこは控室のような部屋で湯灌をしてもらっていた。

(湯灌= 遺体を清拭し、身支度を整え化粧を施す葬儀の前の儀式)

湯灌は業者が3人でやっているのだが、そのなかのひとりの女性が若くて、しかもたいへんな美人なのだ。ほんとうの美人とはこういうところにいるものなんだと、ひとつの発見をしたような気がしたものだ。

 女性はかがみこみ棺に手を入れててきぱきと作業をしている。いとこの顔や身体をタオルで拭いたり、硬直している腕や指の組み直しをやっているのだが、「うわあ、硬い、よいしょっと」、とひとり小声でつぶやいて、まるで少女がお砂遊びを楽しんでいるような風情なのだ。

まことに不謹慎な感想なのだが、いとこが羨ましく思えた。


 そんな埒もないことを思ったのはたしかに思ったのだが、ほんのいっときのことだったろう。すぐ、棺の中のいとこは、このことを知らない、見てはいないのだということに気づいた。

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