青大将が道のまんなかでひかれていた

知り合いとの会食のおりの雑談で一人が

「近頃、生き物がかわいそうになって、家のムカデもごきぶりも殺せんようになった。」

という。

すると、もうひとりが

「うん、自分もあれほど好きだった魚釣りが嫌になった。」と同調する。

そう、言いながらも、おいしそうに肉や魚料理をたべている二人に、つい私が口を挟む。

「生類憐みの令でも出したらどうか。

それにしても、それじゃあ、生きるためには仕方ないとはいえ、食事をするたびに後ろめたいだろうなあ。」と皮肉を言えば、

「いや、殺すのはいけない。しかし、食べるのはかまわないんだ。」と理屈にならない理屈を真顔で言った。

現実には、いいも悪いもない。食べなければ、つまり殺生しないことには人間は生きていけない。たとえ虫も殺せぬ風情の麗人と見えても、もし生きている身であれば、われらと変わらぬ殺生はまぬがれぬ身なのである。


宗教によっては流派の流儀で、殺生を嫌って、生き物を口にしないのがある。あるいはベジタリアンなる者もいるらしい。では野菜なぞには命がないのだろうか。

 よくよく眺めているとあれらも話しかけてくるという話を誰かからきいたことがあるような気がする。

 だが、本気で流儀、流派を名乗り、そうやって謂わば禁忌を定め、それがいくらかでも気休めになっている人たちに何も言う気はしない。

人の生きる根本である食べることにおいてさえこういう風なのだ。



そういう按配で生きている人間の、ともかく作り上げた社会だから、身過ぎ世過ぎにも、当然のごとくに不条理はつきものである。


たとえば坊主。

人が死んだら金になる。人が死ぬから用事がある。もし死ぬ人間がいなければ何も用事はない。葬式に出れば、その都度「死んだらどうなるんだろう、どこに行くのかな」などという疑問がふと起こる。考えてはみるがいつも、それがはっきりしない。ほかに聞くところも思い当たらないので、すぐそばにいる坊主に訊こうかと思いつくが、どうせ、知らないだろうと止めておく。坊主も死んだことはないのだから。


たとえば医者。

人間が健康で、一生病気にならなければ、要らない。死なない人間はいないが一生医者にかからずに済ませた人間は時折いる。私の祖母がそうだった。皆がそうだった日には医者は廃業するしかない。つまり、病人のおかげで食っていけているのだ。

 これは思っても誰も口に出さない。自分がうっかり病気をしてしまい、世話にならねばならなくなったとき、医者に機嫌を損ねられたら困るという潜在意識があるからである。内心など、ばれるわけはないにもかかわらず。

ただ、病人がたくさんいるからこそ、おかげで高収入が手にできるのだから病人に対して感謝すべきなのだという認識をしているというか、気持ちを持っている医者はひとりもいない。

ちかごろ大きい病院の受付の呼び出しでは患者を「だれだれ様」とよぶようにはなったが、それはそれだけのこと。


 たとえば警察官、刑事、裁判官など法曹関係。

悪さをする者が世の中に一人もいなければ、どうだろう。

そんなわけはないか。

「浜の真砂は尽きるとも、世に悪事の種は尽きまじ」と昔の人が言っている。

何かと昔の人はうまいこと言う。

物心ついた時から人は誰しも悪いことをするように、ではなく、しないように、決して、絶対に、くれぐれも、お願いだからしないようにと、教師や親に教わって育ったはずなのに、世の中にはかなりの数のそれが守れない者がいる。

「謝って済むんなら警察はいらん」という言い方がある。

謝ったんでは済まないほどのことをしでかしたものがいるからこそ、警察の出番がある。


以上三つほど挙げた仕事は、これらは人間が存在する限り人間にとって、いくら不本意でもなくならない、しかも人の羨む一生安泰の、しかも、それをやっているというだけで世間で尊敬されることになっている職業だ。


 しかし、反対に残念無念、近い将来なくなるであろう、いやなくなること確定の仕事がずいぶんある。一つ一つ仔細に点検すれば、あれもこれも、ほとんどが要らなく仕事に思えるほどである。それは、世の中では尊敬の対象にはなってない次のような仕事だ。

どれも機械というかコンピューターが人間の代わりをする。


先日、スーパーで買い物をしてレジに行くと店員がやっている通常のレジのとなりにいつのまにか無人のレジが何台か置いてあって、いつもはレジを打っている女性がその無人機の使い方の説明をしていた。大方の客が無人機の使い方を覚えたら、その女性の仕事はなくなるのだ。なんとも痛ましい風景を見た気がした。

 むかし、ブルドーザー、ショベルカーは人間100人以上の働きをするという言い方を聞いた覚えがある。そのときは、「それは大助かりだろう。あとは人間が皆で土を均したり片付けたりすればいいのだろうから」くらいに思えたものだ。しかし土建会社は現実に、その気になれば100人減らしができる状況を手に入れたのだ。

 そして、ほどなく大方の土建会社は「その気」になったようだ。


 こんな按配に、これまでもあらゆる産業分野で仕事の機械化の進行に伴い、人力によるしごとは少なくなっていく一方だった。

 だが、次に起ころうとしていることは、100人力の機械を操作する一人のオペレーターが要らなくなるのだ。では、だれが機械を動かすのかというと、コンピューターが動かすのだ。人間に代わって。

 ブルドーザーはおろか自動車から何から、動くものすべてがそうなるらしい。動かぬものはなおさらで、思えば、お金などはもう、とうの昔からお客本人がオペレーターをやらされている。

理屈を聞かされれば分かったような気にはなるが、買い物などする度に、じぶんの金なのにどこに置かれているのやら、まるで架空のもののようなのに、その架空のもので何かの支払いをし、挙句、架空のお釣りを貰うという作業をし終わった後の、言いようのないたよりない気分を何度やってもぬぐい切れないのは私だけだろうか。

いくら手ごたえがなかろうと、いや確かに自分は支払いを済ませたんだと思い込めない人間は、もはや、まともな日常生活は送れない状況にある。もう、その事態に大方の人間は慣れたというか、飼いならされてしまっているのだろう。


 だが、そういうコンピューターにかぎらず、あらゆる分野の科学の進歩は歩を緩めることはないだろう。

 その有様を誰がどう感じようとだれにも止めることはできない。

 理由などはない。人間はそういう風にできているようにしか思えないのだ。

 使ってみて、便利なものというか、快適なものは手放せない。冷房がわかりやすいその一例だ。

温暖化の一因とされている。地球の環境によくないことはみんな認識している。だが温暖化について議論するどこの国際会議の会場もきっと冷房がしっかり効いているだろう。現場を見たわけではない。想像だが、間違いなかろう。

 

 さてでは、その会議に出席するために世界の偉い政治家、学者やらがどうやって集まって来るかといえば全員、たくさんのガソリンを消費し排気ガスをまき散らす飛行機に乗って、である。これも想像で言っているのだが、そのとおりだろう。


 こういう風にいうと、世界中の賢人の集まる会議なのであるから、そんな細かいことを言われる筋合いはない。大所高所から、もっと根本的な地球規模での対策を練っているのだ、それにもうすぐ石油燃料は使わなくなるのだと誰かから逆ねじを食らいそうなので、いまのは、言わなかったことにする。


 それよりも、「人間はそういう風にできている」といった「そういう風」に含むものについて述べたい。

 人間は、といっても科学技術に興味、能力のある人間は、と言い直さなければならない。そして、その技術を理解でき、それを行使できる立場にある人間も当然含めなければならないだろう。

 原子爆弾がいい例だ。

 アメリカの科学者が作った。作ったのはアメリカの科学者だが、それはたまたまアメリカの科学者だっただけだ、といいたいのだ。

 こうやれば、かつて例のない威力の爆弾が作れる、ということが一人の科学者の頭の中で閃いた。この瞬間から、もう、どこかで原爆が使われることは確定していたのだ。

 たまたまアメリカで出来上がってしまったために日本の広島、長崎で使う羽目になってしまった。原爆というものの威力を知った軍部は当然、その作製を命じるだろう。出来上がってしまえば、使わずにはいられない。

 なぜ、あんなむごい兵器を使ったのかと後でアメリカは責められて、戦争を少しでも早く終わらせるためだったと大統領が言い訳したらしいが、いま私はアメリカを責めているのでもなければ、言い訳の真相を正すのでもない。

 人間はかつて知らなかった原理を発見することが好きで好きで仕方ない性質をもっているのだ。願わくば、それを応用して何か珍しい物つまり発明がなされるのなら、これ以上のことはない。

 どこの国においても当時もいまも軍部の研究機関の研究目標はいかに大量に、時間をかけず効率よく人を殺せるかの方法、手段であるから、それが完成したとあれば軍部とすれば手柄以外の何でもない。政府、大統領も直前には使うことに多少の逡巡はあっただろうが結論は見えている。オッペンハイマーもトルーマンも責められない。

 

 さて、なにも発見、発明が好きなことが悪いことだと思っているわけではないのだが原爆の例にみるように、出来上がれば使わずに居れないのが人間の習性だといいたいのだ。


 また、たとえば不妊治療についても。

 開いた口が塞がらないとでも表現したくなるような奇抜な妊娠出産のやり方が次々考案され、実施されている。ことが男女両方に関与する手技になるので、どれも複雑で私にはよく理解できないのだが、最近テレビの医学のドキュメンタリー番組ではじめて知ったのだが、夫婦が受精卵を他人の女性に依頼して腹を借りておなかの中で育ててもらい、首尾よく出産にいたると出てきた赤ちゃんを依頼者から戻してもらい我が子とする、という方法が考案され、アメリカではすでに何例も行われているのだ。

 需要があれば供給者も現れる。

金持ちの夫婦が仲介者(病院)を経て、まとまった金を必要としている貧しい、しかし若くて健康なからだのそして一度は出産経験のある女性に頼むという図式だ。


 だが、なにも、そんな突飛なやり方をしなくとも、たとえば養子という手もあろうし、などと思うのは、第三者の感想なのだろう。

 方法があるのだから子供のできない、「金はある夫婦」にとってみれば、止むにやまれぬ選択かもしれない。

ただ番組では、お腹を貸した一人の女性がおなかが大きくなって、出産まじかになったとき、「やっぱり、おなかの子はじぶんの子としか思えない、お金は返す。自分が育てる」という例も紹介した。あり得ることである。なんともやりきれない気持ちになった。

どうしたものか。この医療(?)をどう思えばいいのか。やりきれない気持ちに

続く感想を「思念」することさえはばかられる思いが襲う。

 ただ、しかし、私がどうしたものかとひとり悶々と考え込んだところで事態は変わらない。これに代わる何かあたらしいやり方が考案されない限りは。

 ということだけははっきりしている。そういう風に人間の「指向のありよう」というものができているという見方に照らせば。


 きのう、車を運転していたら、前方のわたしの通る車線のまんなかに太い黒いゴム紐のようなものが落ちていたので避けて通った。通り過ぎる際に確認したら、青大将だった。ずいぶん久しぶりなので、大きく感じたのかもしれないが1メートル50センチくらいに見えた。

 もう動けないので一度はひかれているはずだ。この交通量では平らな身体になるのは早いだろう。

 あの蛇はあの大きさになるにはかなりの年月を要しただろう。車の通る道路に出たらどうなるか、仲間たちの末路を何度も見知っていて、自分は絶対、飛び出さないよう注意を払ってきた。だから、長生きできたのだろう。ということは、もう寿命が尽きる頃ということでもある。

 人間にも適齢期というものがある。蛇にもあるだろう。この蛇は適齢期を悟り、失敗のない方法を選んだのではないのか、という想像が浮かんだ。

 こういうのを擬人化というのだったかなと気づいた。

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