万里の長城で人の排便の一部始終をまうしろから見、じぶんも見られた女性の話
知り合いの旅行好きの高齢の女性に聞いた本人の体験談である。団体ツワーで中国の万里の長城へ行った時のこと、長城に到る道を歩いていると途中に便所があるので用を足そうと中に入った。
すると見回しても便器らしきものがないのだ。代わりに道端でよく見かける雨水を流すコンクリートで出来たあの溝、U字溝が埋めてあり10メートルくらい長く延びている。事情は理解できた。なるほど跨ってちょうどいいくらいの幅の代用品ではある。
しかし泣ける。いや私なら泣ける。
三、四人が既に屈んでいる。仕切りも何もない。仕切って、ドアという遮蔽物の向こうに隠されているはずの他人の排泄行為の全容が丸々見えているのだ。
自分が屈めば、その目の前の光景はどんな風かといえば、前の人の、当たり前だが丸出しになった尻、その尻の間から大小便のひり出される有様が否応なしに見えてしまうのだ。もちろん音も伴う。また大便は常に固形物であるとは限らない。液状化している場合もある。まして旅行中の場合は液状化しやすい。その場合なおさら排出音も大きくなりやすいことは「排便の経験のある人」なら誰しも知るところだろう。
そして、事が終われば紙で後始末をするのが「排便をし終えた者」の習わしだが、思うに、がさごそという音も伴い、他人の行為の場合、排泄行為以上になんとも悩ましい気分に襲われる気がする。
行為が行為だけに光景だけに気をとられてしまいがちだが、しかし臭いも恐らく、ただ事ではあるまい。
出たてほやほやのものの臭いに関しては日頃水洗式を使っている人なら熟知いるはずだし、また、日にちのたったものについては、くみ取り式の便所を使用したこと、もしくは富士山とかに登山した経験のある方ならお気づきのことと思うが、出たてほやほやのものと日にちの経ったものとは明らかに臭いのニュアンスが違う。さて、ではどちらの方が好ましいというか、辛抱がし易いかといえば、それこそ好みの問題かも知れない。比べがたいが私見をいえば日にちの経ったものの方が香ばしさが加わり、ましかもしれない。
臭いについてはその女性に聞かなかったが、出たてほやほやで、しかも何人もの混ざり合ったしろものであるからして訊くまでもないだろう。私の想像だが、きっと「想像を絶する」ものだろう。
さて、それよりも、というか何と言おうか、自分の目に映る人の姿はあくまでも人事だ。しかし自分が用を足さねばならぬとするば、自分の後にかがんでいる人に同様の姿を晒さねばならない現実に甘んじなければならないのだ。
我慢ができるものなら誰しも我慢しよう。しかしできないからこそ皆かがんでいるのだ。いくら恥ずかしかろうと。自分も残念無念の極みながら、我慢出来ない。かがむ他ない。
もし、この事情を事前に知っていたら何か打つ手がないでもないだろう。しかし旅行会社の者からはこの事情の案内、注意はなかった。まあ旅行会社としては営業上、敢えてその実情を明かすわけはないか。行先を決める段階でこの実情を知ってしまったとしたら、相当の豪傑でなければ、万里の長城を含んだコースは敬遠するだろう。少なくとも私は絶対このコースはご免蒙りたい。
ついでに言わせてもらえば、便所事情以前に、ここは御免蒙りたい気持ちが私にはある。いったい何を見に行くのだろうか。景色を眺めるのであれば、もっと結構な見所はこの国にはいくらでもあろう。
この塀を造った目的、理由は何かというと北方民族の侵入を防ぐためだそうである。もちろん私は行ったことはないので学校の社会科の教科書で見たような気のする写真の印象で言うのだが、美的観点からは何の見どころもない、延々と長い石積みの列に過ぎない。あきれるほど長いらしい。
つまり工期も途方もなく長いのだ。こんな(想像だが、きっと目的には何の効果も果たさなかっただろう)ものによくもまあ馬鹿げた手間と歳月をかけたものと思えばため息が出る。すなわち工事に駆り出された国民の難渋を想うと私には為政者に対する腹立たしさが込み上げるばかりである。
そんな長いだけの堤防に過ぎない石積みは、遺産は遺産でも「負の遺産」としか感じようがない。
さて我慢がならず無念にもU字溝にかがんだ件の女性はさすがに中国の旅行は懲りて二度と行かないだろうと思った。ところが後日会った折、また中国へ行ったというのだ。だが、まさか、いくらなんでも今度はそういう可能性のある地域は避けただろうと私は予想したものである。
ところがなんと、またも、そういう可能性のありそうな地域を選択してしまったので、いざとなったら大人用の紙おむつを着装して、用を足すことを思いついて旅行鞄の中に用意して行ったそうである。そしたら役に立ったそうである。役に立ったとはつまり実行したという意味だ。
実行とは、つまり、何を実行したかというと、尿意あるいは便意を催したら意を決してそのままの体勢でおむつの中へ排泄したのだ。
確かに「はくパンツ」と称して出歩ける人が外出時に着装するおむつがある。それを穿いたのだ。しかし、それは本人の自覚なしにいつのまにか失禁してしまったのを受けるという趣旨のものである。健常な人が意識して「一人前分」を排泄するためのパンツではない。どう使おうが勝手なのだが、想像してみてほしい、たとえ立ったままであろうと座ってであろうとパンツとその上にズボンを穿いたまま、発射の合図が出せるものだろうか。というか合図を出したところで身体が従うものだろうか。
考えているうち、何がなんだかわからなくなってきたが、やはり神経といおうか気持ちの問題であろう。発射しよう、しなければ埒があかないのだからと言い聞かせる自分がいるがその一方で、たとえ人には見られなくともそんな行為ははしたなさの極みだし、それに気色の悪いことこの上ないだろうからと、どうしても踏ん切りがつかないのではなかろうかと、私としては想像するわけだが、よくよく考えてみればこの女性にはそんな柔な感情が起こるわけがないか。あっけらかんと平気で私に話してきかせるような性格の持ち主なのだから。
よく分からない。私にはそういう地域には二度と行きたくないという感情しか起こらない。だからきっと人もそうに違いないと思うのだが、そうでもないのだろうか。
人によっては別段、なんというほどもない平気の平左でやれる行為なのだろうか。
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