いなくなっているものには気づかない

 となりの家のご主人が死んでいた。

町内の大掃除の日に、家の者が雑談で、となりの奥さんに「そういえば、この頃、お宅のだんなさん、見かけないようだけど・・・」と訊いて知り、私に教えてくれた。

 半年近く経っていた。

大掃除は春、秋に年二度ある。つぎの大掃除のとき、やはり家の者が雑談でとなりの奥さんに「そういえば、近頃、お宅のわんちゃんの鳴き声を聞かないような・・・」と訊けば先日死んだとのこと。散歩以外は常時家の中で猫のように飼っていた小犬だった。


 またそのつぎくらいの大掃除の折り、家の者がこんどは反対どなりの家の奥さんとの雑談で「そういえば、この頃お宅の・・・」と訊けば、やはりかなり前にこのうちのおやじも死んでいた。

 この家にも犬を飼っていた。真っ黒の大型犬で、見るからにもう年寄りで、いつ頃からか腰の周りに赤いこぶができて、それが散歩で見かける度にどんどん大きくなり黒ずみ最後には野球ボールくらいに見え、それのせいでよろよろする有様だった。その光景に出会う度、家の者も私も、ぎょっとさせられて、よその家の犬なのに、あのこぶをどうしたものかと思案に暮れたものだった。だんなさんが死んでからも奥さんが連れて歩くのを半年以上は見かけた気がする。


「手術してとればいいのに。」

「いや、あそこまで大きくなったものをとったら死んでしまうかも知れない。だから、いくら見苦しくても・・・・・」

「いやいや、そうはいってもいくらなんでも見苦しすぎる。見苦しいにも程がある。よその子供が見たらびっくりして泣き出してしまうかも知れない。

百パーセント死ぬものとも限らないだろう。一か八か、やってみる手では。」

「そんなこと言って。もし、人間だったら一か八か、やるかしら。」

などと喧々囂々、かつてこんなに本気で夫婦で議論しあったことがあっただろうかというほど、どちらかが散歩の犬を見かけるたびに話し合ったものだ。

いつの間にやら、どちらも、まるで我が家の犬であるような錯覚におちいっていた。

 やがて、ああそうか。うちで何を決めてもしょうがないんだ。うちの犬ではないのだ。となりの犬なのだとお互いやっと気づくのだった。

ただし、そういう意見を飼い主に言ってみたことは一度もない。

散歩させるのを咎める風にとられるのもなんだと思えたからである。

 そういうことで家の者も私も気になる犬だったのだが、やがて家の者が顔を合わせたときの「そういえば、近頃お宅の・・・」で死んだのを知った。 

 

 どの死も先に家の者が知り、家の者が私に知らせたものだ。思えば、犬は無論のこと、どちらのおやじも立ち話もしたことがない。、通りがかりに会釈するだけだった。。どちらもたぶん私よりいくぶん上で、七十になるかならぬかくらいだったろう。そして、どちらも死因は確かどこかの癌だったときいた。

 おおよそ、ここ2、3年くらいのあいだに左右両隣りの家のご主人と飼い犬がこの世からいなくなったことになる。


 それから程なくして、小犬を飼っていた方のとなりの奥さんが、子供たちはとうに結婚を機に家を出て行ったし、だんなさんも犬もいなくなって寂しくなったのだろうか、それまでは犬に気兼ねしてなのだろう、以前は餌をやったことのなかった近所をうろついている野良猫に、餌をあたえるようになった。全部で二、三匹程度なのかもっとなのか、よくはわからないが几帳面な感じのおくさんだから、きっと適量を決め時間に与えたことだろう。

しかし、家の中には入らさない。えさをやるだけなのだ。


 この奥さんには一人息子がいる。今もいっしょに暮らしている。見かければ、私はいまでも青年を見ている気で眺めるのだが、思えば、もう40に近くなるのではなかろうか。

結婚する気配はない。隣といえどもよその家のことなのに、なんでそんなことが分かるのかと言えば、この息子は判で押したように夕方6時頃、勤めから帰ってくるのだ。勤めをしだしてからというもの、ずっとそうだった気がする。休日も車は駐車場にずっとある。

 つまり私の「結婚する気配がない」の根拠はその行動パターンにある。男女交際をしている者の生活ぶりではないと見えるのだ。

これは私も家の者も同じ意見なのだが、なんで「そんなこと」になってしまったかというと、奥さんがつまり母親があまりに良く出来た人のせいではないのか。

息子さんにとって家事万端、申し分なく気の利く母親との二人暮らしはこの上なく心地よく、妻という他人に入り込んで来てほしくない、仮に母親をここに残して他所でお嫁さんと二人で暮らしても母親ほどの気働きはしてくれないだろう。


 そんな想像を私がしてみたところで何がどうなるということもない。ただ、してみただけのことである。当たってもいないだろう。

本当のところは、人の身の上は、なにごとも巡り合わせでしかないのと同じ理屈で、息子さんも母親も気がつけば、なんとはなしに今にいたっていたのだろう。

念のため、あとで家の者に確認したら息子さんは今46歳になっているはずとのこと。40前ではなく。母親は70半ば、だそうである。


 その息子は猫とは何も関わってはいないだろう。家には入れないのだから。

母親が窓から餌をやっているのを眺めているだけだろう。

猫たちがいくら家の周りでごろごろしていてもおくさんは庭に寝床になるようなところは拵えている様子はない。

 では猫たちは、寝るのはどこなのだろうかと気になっていた。

 やがて分かった。わが家の反対どなりの家の、大型犬がいなくなり空き家になった犬小屋やベランダの下に、いつの間にやら住み着くようになっていた。

 反対どなりの奥さんは、見るからにおっとりした人で、事実、性格もその通りおっとりした人なので「気に入ったのなら居ればいい」と寝床にしてしまっているのを咎めなかった。犬の代わりに、という気持ちもあったかもしれない。

 こうなると、わが家の片方のとなりが食事処でもう片方が寝床というわけだから、しょっちゅうわが家の前を行ったり来たりすることになる。あまり目にはしないが、わが家の少々ある庭の中も、見てないときは何の遠慮もなしに歩きまわっていることだろう。

 猫は歩き回るところにはところ構わずしょんべんをする。だが庭には入るなと言っても彼らは聞かないだろう。


 月日がまた過ぎていった。やがて、そのうちの一匹のお腹の大きくなっているのに家の者が気がついた。見る度にどんどん大きくなり、その雌はやがてどこかで子を産んだ。


 猫は一度に三、四匹生むので、家の周りはあれやこれやでにぎやかになった。

 とはいえ猫たちは普段は物静かなので、家の中では何も物音は感じない。出かける時の玄関から駐車場までの間の観察で朧気に様子を知るだけのことである。


 そうして、また時は移り、そのとき生まれた子供も成長しやがて、いつの間にか大人になり、どれが親でどれが子か区別が付かなくなった。といっても猫は一年すればもう大人だと言うから1年後くらいのことだろうか。

ある日、またもや、やっと目が開いたばかりのようなよちよち歩きのが、わが家の庭に現われた。かぞえると四匹だった。どこから来たのだろうかと思い思い、放っておいたらいつの間にかいなくなっていてその時には分からなかった。


それから数日後、家の者が奥さんと立ち話をしたとき、子猫のことを話題にしてみたら、どこで生まれたか、その正確な場所がわかったのである。

なんと、奥さんが、家の押し入れの中から何やら物音がするので開けて見たら、布団の上で雌猫がうまれたばかりの子供を抱えている光景がそこにあったというのである。

つまり、ベランダでごろごろしているうちの一匹の雌が家の中に忍び込み、そして押し入れにこっそり入り、ちゃっかり赤ちゃんを産んでいたというのだ。

 確かにベランダは猫たちに提供しているというか、居ること寝ることは好きにさせている。だけれども、餌はやってないし、家の中には入れないので自分が飼っているという自覚は奥さんにはない。

 猫たちがどこで餌をもらっているかは、知っている。自分の家には寝に来ているだけ。この奥さんの認識では飼っているのは自分ではなく、餌をあげている家なのだ。

 「軒を貸して母屋を・・・」の喩えが当てはまるのかどうかわからないが

家には一人なので自分が気づかなければ他に気づく者はいない。

 

 知らないうちに押し入れでよその猫がこどもを産んでいたという信じがたいような話ではあるが、あの奥さんならあり得るという気はする。

 いや、それはどうでも、これから先この事態、どうなるのかと人ごとながら気にしながら、その子供たちが散歩コースにしているわが家のベランダにやがていつの間にか這い上がれるようになっていくのを眺めていた。

 

 それはそうと、ふと気がついたことがあった。

 本来、隣近所の出来事なのに、こと改めて記憶を整理してみればというのもおかしいが、思いだしてみる。

まず始めは餌を与えたから野良猫が集まるようになった。このあたりで、あまり見かけない人相の悪い猫がうろうろしているなと思ったものだ。

 その中の一匹の雌が何匹かの子を産んだ。

そして、またそのなかの一匹の雌が子を4匹産み、いま目の前にいるのだ。

 たしかにここにその4匹はいるのだが、それ以外はいなくなっているのだ。この子たちの親さえも。 

 これはいったいどういうことなのか。

 この子たちも、またそう遠くない将来に、雌であれば身ごもり子供を産むのだと、この辺り猫だらけになることを想像して心配になっていたのだが、考えてみれば、これまで居た、あれ達はどうなったんだろう。

どこへいってしまったんだろう。

 あれ達がいつのまにかいなくなっていたことに、いままで気がつかなかった。

そのことに今、ふと気がついたのに、気がついた。

 

 家の者にそのことを告げてみた。

「そう言えばそうね」と不思議がることを想像して。

 するとたしかに、やや、「そう言えば」といった風情は見せたような気はするが驚きの表情もことばも出てこない。

 いや、元々家の者は私に対しては無愛想なのだが、それはさておき、誰にかぎらず人間は、目の前に現われたものは意識するが、目の前からなくなったものについては意識しづらいしくみに神経がなっているらしい。

 私の場合も。

これからもずっと続くだろう町内の大掃除の折りの雑談で

 「そういえば近頃お宅の・・・・」と近所の人に、家の者が訊かれている場面が想像できる。いや、もしかしたら近所の人は家の者に訊かないかも知れない。

 いなくなったことに気が付かなくて。


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