主観はあるが客観なるものはない
歯がずきずき疼く。歯だけに限らず身体のどこであろうと痛いとか、とにかく不具合があるとき、病院の待合の窓から眺める外の景色の印象は大げさにいえば目に入るものすべてが悲しみ色を帯びて映る。
通りを人が歩いている。なにやら難しい顔をしている。身内の誰かに不幸があったのだろうか。ひとりにやにや笑いながら歩いている。きっと何の治療法もない精神の病を患っているんだろう。犬を連れている人がいる。それにしてもなんて不細工な顔をした生気のない犬なんだ。この犬と暮らしていたら気が滅入って世を儚む気分になるのでは。
うちと同じような安アパートのベランダに洗濯物が干してある。だらりとぶら下がったそれらのたたずまいのなんと物悲しいことよ。たぶんじいさんばあさんのものらしきそれらをうっかり目にしてしまった我の不運を嘆く気分である。
体調が、最もこの世の印象に影響を与えるのは間違いないが、私はその日の天候にもかなり左右されている自分を自覚する。雨の日はできれば外出したくない。できれば人に会いたくない。相手もたぶん自分とおなじく、人に会いたくない気分だろうから。
また暑い寒いも私の思考に関与する。暑がりの寒がりという云いかたがあるが暑がりの者はたいてい寒がりでもあるという程の意味である。実は私がそうである。暑いのも閉口だが寒い方がもっといけない。冷え症というのか、ストーブなどでたとえ体は温まっても足の先はとり残されている。足の先は冷たいままなのだ。頭寒足熱が理想とされていて、つまりその逆、頭熱足寒状態なのだ。靴下のいくら分厚いのを履いても無駄。なんらかの強制的温めの策を施さなくては埒があかない。で、その足の冷たい様はただ冷たいという感覚だけではなく、言い難い不快な気分が伴う。
普通の人は足の先だけ冷たいということはないらしい。そして私の足の先が温まらないという現象が何なのか自分がそうでない人には想像できないらしい。不思議そうな面持ちで足を温めている私の様子を眺める。
ところがその足が困ったことに夏には火照るのである。
それにしてもお互い、人の身体の不具合、またその為に起こる気分の不快についての見当の着かなさ加減はかなりのものと言えようか。
たとえば医者が患者を診る場合、患者の苦痛にそう同情していては仕事にならないだろうが、馴染みの医者との雑談のなかで次のような述懐を聞いた。内科系の医者だが。
「医者が、その病気の患者の苦しみが如何ばかりのものか知る機会がある。それは医者自身がその病気に冒された時である。それまでは知ったかぶりをしてきた。いや事実これまで何人も診、その都度、治しもした。しかし自分がその病気の患者になって初めて、この病気がどれだけ苦しいものか、なおかつ心細い心境になるものか理解ができた。それからはどんな症状も安易に分かった気にならずしっかり『苦しさ』を察知し出来るだけ速やかに取り除いてあげようと心掛けるようになった。」としみじみ心境を吐露したことがあった。
病気に限らない。何ごとにおいても自身が身を持って体験したこと以外、真に合点がいく事柄はない。ただ、少しでも分かろうと心掛けるのみである。
つまり人には主観しかないのである。客観は存在しない。客観なるものが、なんとなくあるような錯覚をしているだけのこと。客観という「言葉」があるだけである。
デカルト風に表現すれば「我あり故に我思う」といったところか
間違っても「公正な立場から冷静沈着な判断を下すことの出来る人間の持てる視点」が客観では決してないということ。
念を押してもっと言えば、客観などどこにも存在しない。人間対人間の例でいうとすれば、互いに自分の意識あるのみ。自分は自分の主観、そして他の人間もそれぞれ自分は自分の主観で生きているのみだ。
シンプルなひとつの事例を想定してみる。人間対人間をA氏対B氏と表す。なにやら二人は言い争っている。そこに何の利害関係のない、所謂第三者の立場のC氏が加わり意見を述べている場面を想定する。すると、世上ではC氏の立場、意見をもって一番「客観的」と見做し、それが客観の存在する根拠としている。しかし第三者の立場と見做すC氏の意見ではあるが、なぜ客観的と言えるのだろう。
C氏の立場は立場であって、C氏は意見を、すなわちC氏の主観を以って述べているのである。それを私は客観なぞどこにもないという所以である。
会議、合議でもって民主的な結論を求めるという方途がある。たいていの場合多数決でもって物事を決める。それを客観的な結論を得る最良の方法と見做す。しかし最良かどうかは別にして、それは多数決という方法を用いるという事象があるだけのことで客観という意味は含まないはずだ。
会議という場で何が行われているか。その中身を吟味すると、各々の人間がそれぞれ自分の意見すなわち「主観」を持ち寄る場と見做すのが正鵠を射ていると考えるのだが。
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