院内のありさま・男女の様子

 私の寝ているベッドからは外の景色は見えない。

まあ、見えたところで何の変哲もない町並みと空。覗き込むようにすれば道ゆく自動車の列か。  

 こんな言い方も変だけど、私には病院生活に一種のやすらぎが胸のなかにある。

そりゃ、病気の治療はずいぶん苦しい。患部は痛むし、ほかにどうにも表現のしようのない辛さがある。

 それはそうなのだが、怠けものは、いくら怠けてても叱られることがないのだ。

昼間も治療のない時は寝ていれば、寧ろ安静にしていると褒められる。夜はなんだか寝つきにくいが、そんなことは何でもない。昼間眠ればよいのだ。


 同室に新婚さんがいる。

御亭主が病気で、奥さんが看護だ。十一月末に結婚して、正月元旦早々に救急車で運ばれて来たという。ずいぶん気落ちしている様子だ。無理もあるまい。

 それにしても、新婚らしく、いや新婚じゃなくても夫婦とはああいうものなのか、実に甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼いている。

 よくまあ、あんなに用事のあるものだと眺めている。奥さんは御亭主のなにかの世話のため部屋のドアをひっきりなしに出たり入ったりするのだ。               

御亭主は私と同じ病気だと聞いている。

 私はほとんど何も用事がない。便所と洗面と、それから、こっそりテレビ室のとなりの喫煙室で喫う煙草ぐらいだ。誰かに代わりにやってもらわなくてはならないことはほとんどない。

 そうであるから、というわけでもないが、だれかに気を使うことも、たいしてない。煙草をこっそり喫うのだって、医者から止められてるから、こっそりな訳ではない。喫ってるのを看護士さんに見られても注意されることはない。看護婦は患者の健康に関心はないのだ。 

 では、誰にこっそりかというと、隣りの『ぼくちゃん』にである。私が煙草を手にして喫煙室へ出かけたり、帰ってきたりするのをそのたびに恨めしそうに眺めるので、なんとなく遠慮しているのである。遠慮といっても喫煙室へ行くのに部屋を出る時、手に煙草を持っているのを見られないようにするとか、帰って来た時に煙草を吸った満足感を漂わせないように気をつけるとかしているだけのことだ。もっとも「ぼくちゃん」がそんな目で見ているわけではないもかもしれないが。

         

さて、その「ぼくちゃん」はあまり耳慣れない言い方だが

『ぼくちゃん、熱があるから死ぬかもしれない』

といってナースコールで看護士さんを呼ぶのである。

朝も夕方も定時の検温に異常はなかったはずだ。それでも看護士さんは『ぼくちゃん』の様子を見にやってくるのである。       

『ぼくちゃん、熱があるんですって』         

と言ってそっと『ぼくちゃん』の額に手をのせる。

 ぼくちゃんはこの看護士さんを気に入っているのかな、といつも私には思えてしまう。

 というのは、つまり通常熱は体温計で測るものであって額の触診などあり得ないのだが、この看護士さんは右手を当てて、その上にやおら、もう一方の左手も添えるのだ。

 そんな仕草もやさしげで好もしいが、何より美人なのだ。

 つまり私自身がこの看護士さんに多分の好意を感じているものだから『ぼくちゃん』もそうに違いない気がするのだろう。この看護士さんはすらりとした身体をしていて、しかも太ももからふくらはぎにかけてはやや太めで頑丈そうという私の好みなのだ。そして、これも私の好みの、なんというか現代的な顔立ちをしている。歳は三十歳前後か。

 『うん、だいじょうぶ。熱はないよ。安心して寝てね。おやすみなさい。』

もちろん、看護婦さんにはローテーションがあるので、いつもこの看護婦さんがいるわけではないが、ほかの看護婦さんの場合でも、ぼくちゃんに何かしら一声かけには来てくれるのだ。『ぼくちゃん』と看護士さんの儀式になっている。『ぼくちゃん』は可笑しいくらいに、じき眠りにつくのである。

 何時から始まった儀式なのか、私が来た時には、たしかもうやっていた気がする。患者にこういう対応ができる、この病棟の雰囲気に好感を持っている。


 しかし、この『ぼくちゃん』とはどんな背景を持った人物なのか。歳は三十代後半だろうか。痩身である。私と同じ病気なのか。雑談、世間話というものをしない。人と話をしないからといって不機嫌なわけではない様子だ。精神のうえで、なにやら難があるのは確かだろうが、私の過去何回かの入院の経験からいって、人と会話をしない患者さんは他にもいた。『ぼくちゃん』が初めてではない。

看護士さん等は『ぼくちゃん』の身の上を無論知っているだろうが私を含めて同室の入院患者は何にも知らない。


 そんなもんである。人とぜんぜんしゃべらないぼくちゃんは別にしても、わりと長い入院をしなくてはならない患者同士でも、お互いの病気のことをすこしするていどである。あとは、朝飯が遅いな、とか何でもない日常の会話をするだけで、その人の身の上はまるで何にも知らずに終始する場合が多い。


 ついでに思いだせば、個人経営の病院だったが、そして患者ではなく医者なのだが、不思議な医者がいた。いや、医者の恰好をした人物というべきだろうか。

いつもだいたい決まった時刻に何かぶつぶつ呟きながら病院の玄関の付近を、人待ち顔でうろうろしている。初め見た時は、もちろん誰かを待っているのだと眺めていたが、その様子を何回か見ているうちに、そうではないことにきづいた。

玄関での人待ち風情が終わると次は外来に廻り、一見なにやら確認ごとでもある風に実に医者然とした風情でレントゲン室か心電図室かに入っていくのだ。

では、そこの担当の看護士さんや技師はどう対応するかといえば、何も対応しないのだ。目の前でその医者が来て部屋へ入っていこうとしているのが見えているはずなのに気づいてない風なのだ。つまりその医者は存在のない、透明人間扱いなのである。中に入って何をしているかは見えないが、むろん何もしてないだろう。すぐに出てくるから。

 その次は反対側の外来診察室に寄る、そこではなにやら看護士さんと一言二言、言葉を交わす。看護士さんがなにか意味のある返事を返しているはずはない。

だが、医者の格好をしたその人物の一連の行動は誰かの目を意識して恰好をつけているわけではない。そういう自意識とは無縁の表情である。

 先にこの人を医者の恰好をした人物と称したが、昔は実際に医者をやっていた時期はあったのだろう。確かに医者という職業の顔付き、体つきではある。華奢なので科目は内科系、つまり手術はしない科目の医者という想像になる。たぶん当たっているだろう。今も、医者の免状だけは持っているのだろう。


 そういうこの人の行動を、不可解さでもって、いつももの珍しく眺めてはいた。

何度か、外来の長椅子でよく隣り合う患者仲間に『あの医者は何者なのか』訊いてみたこともあるのだが『いや、知らん、わからん』という返事ばかりなのである。

小さな病院なので入院中や通院している患者なら誰もがしょっちゅう目にしている風景のはずだ。なのに、「分からん」の後がない。「医者のように見えるがいったい何をする人なんだろう」といった言葉はつづかないのだ。

看護士あたりに訊けば、すぐ教えてくれそうな気がする。

いや、ぜひとも知りたいなら私が自分で、そうすれば、つまり顔なじみの看護士とかに訊けばいいようなものだが、それが何故か訊く気になれないのである。 

触れてはいけない病院のタブーに触れてしまうんではないかという『気兼ね』が作用するから訊けないのだろうか。と考えてみたが、そんな気兼ねをしている気もしない。

 ただ、ぜひともは知りたくないのだけは確かである。

もっと言えば知らないでおきたい気がするといってもいいかもしれない。

それは私だけに限らず誰しもに起こる心持ちではないのか。

いままでに見覚え、聞き覚えのある出来事の範疇に収まらない、不可解な事象に出会ったとき、たとえ誰かといっしょだったとしても、おたがい顔を見合わせて、今見たことについて確認しあったりなぞせず、家へ帰っても、そのことを家人に語って聞かせもせず、ただやり過ごすということをあんがい人間は無意識裡にしているんではないかと思ってみるのである。

  


 喫煙室で顔を合わせるようになった女性がいる。

夜の消灯後、寝つけないと煙草を吸いに、喫煙室に行くことになる。彼女も同様で、顔を合わせることが多く何とはなく話をするようになった。12時頃、夜勤の看護士が見回りに来て「もう、部屋へ帰ってよ」と注意はするが、そのまま居てもそれ以上とがめだてするわけではない。

私もかなり煙草を吸う方だが、彼女も、よく吸う。

彼女は外国製の煙草を取り出す。私はありふれた国産のだ。

高級そうなライターで私のと自分のに火を付ける。

彼女はときどき軽い咳をする。咳をしながらも煙草を吸う。

「止めたほうがいい。胃が悪いんだろう」

と、言ってみるだけの意見をする。 

「なによ。あなただって」

二人で苦笑いをする。

 そんなたわいないやりとりをするうちに、ぽつりぽつりと身の上話が混じる。

名前は安子で新宿のキャバレーでゴーゴーガールをしているという。

 ゴーゴーガールというのはゴーゴーという軽快なテンポのバンドの曲に合わせて体をくねらせて、何とはない、にぎやかしのために踊る役目の何人かの女性たちの仕事である。踊るのが本業ではあるがその合間にはホステスに交じって客にビールを注ぐ役目もする。踊り子は概ねホステスたちより若い。

 入院前までは、ゴーゴーガールをしていたその店が、いまの職場になるのだろうが、店の方も、そうあてにせずに復職を待っているといったところだろうし、本人自身もそう帰属意識は持ちにくい職場だろう。

 18歳のとき家出して東京に来てそれから3年、色々のことがあったそうだ。

色々のことといっても男のことばかりで、だいたい半年くらいで男が替わったことになる見当だそうだ。  

 現在はどんな事情になっているのかと訊くと直前の男とは

「だいたい終わった感じ」とのことだが、もし詳しく訊いたところで、どんな「感じ」なのか説明できない感じである。。

 18+3で21歳のはずだがもう少し年上に見える。私とあまり背が変わらないので女性としては長身である。やや痩せぎすで、あごがとがって見える。しかし美人なのだ。私には美人と映る。人はこの面長の顔を少し間延びしていると見るかもしれないが私には好もしい。私にとっては美形と映る。ただ腰回りや脚にもう少しボリュームがあればもっと私好みなのだが。


 一見して水商売風とか放逸、淫蕩な雰囲気だとか女性の印象を表現する向きもあるがそれは所詮、化粧とか服装から受ける印象に過ぎない。すっぴんになれば、なんのニュアンスもありはしない。もし、淫蕩であるならその女性は、見かけとは無関係に、生来持ち合わせた「気質」が淫蕩なだけなのだ。


 安子には、入院直前まで関係していた「だいたい終わった感じの男」がいるはずではあるが、入院中に男の訪れた気配はなかった。入院して日にちは、ほぼひと月はたつ。もうそろそろ性行為をしたくなってもいい頃のような気がする。

そこで「むらむらが起こったら自分の指を使って、とことんいくとこまでいって満足を得ているのか」と訊いてみた。

「そう、そうすることにしたの。しかたないから」と表情を変えずに答えた。その無表情は、その行為をして、まだそう間がないがゆえの余裕と見てとれた。

私じしんはといえば、入院してからというものは不本意ながらも、と言おうか普通の生理現象と言おうか、むらむらの気分はずっとかかえたままで過ごしていた。


 ほぼ毎日彼女とは喫煙室で会っている。

その日は午後の3時頃に会った。それからは何回か喫煙室に言ったが会わなかった。

その夜をなんとなくもの足りない気分で過ごしていた。12時の看護士さんの見回りがすんだ頃、不意に思い立ち、詰め所の向こうの便所に寄った後、そのまま引返すことはせず、その向こうの彼女の部屋へ向かった。そっちへ向かうまで、そうするとは決めていたわけではない。。足が向くとはこういうことを言うのかもしれない。

 向こう隅から3部屋ほどが女部屋になっていて、一番端が彼女の居る部屋である。二人部屋だが、今は彼女だけなのは知っている。


 日頃から彼女のからだをどうこうしたいという思いは顔を合わせるたびに起きてはいた。しかし彼女に対し、まるっきりそのことのみの関心に終始していたわけでもない。まずは彼女の顔が見たいという願望の方が先立つような気がする。

なんだかほっとけない、彼女の何かをどうにかしてやりたいという心持ちが起こっているのである。

だが彼女が、「好意」という感情を私に向けているのかどうか、日々、顔を合わせているなかで感じとることはできていない。

ただ好意があろうとどうだろうと彼女と私が所謂、男女間における甘い会話を交わすことは想像しにくい。


 彼女の部屋の前に立つと小さくノックしてドアを顔の巾だけ開けた。

ひとつ空きベッドになっている、その向こうの窓際のベッドから手が伸びて、手招きしている。

 まるで私が今夜の今頃、こうして来るのを予想していたかのような振る舞いである。だが私はそのことを、そう奇異に思わず近づいて、ベッドの脇に置かれている椅子ではなくベッドの彼女の足元に腰かけた。

 一応もう掛け布団は掛けて横にはなっていた彼女だが眠りはしてなかった。すぐに上半身を起こし、私のとなりに肩を並べる格好で腰かけて横に並んだ。すらりとしたからだにブルーのネグリジェが似合っていると思った。喫煙室で見るときは上に必ず何か羽織っている。

 看護士の見回りは次は2時間後の2時頃である。

時間は充分にあるが、やはり気は急く。それは彼女も同様であろうと察した。

相手の体にさわるのはお互いに、今が初めてである。普通は、まず両腕で抱き合ったりするものかもしれないが自分たちには似つかわしくないだろう。すぐに快感の要所にとりかかろうかと思った。

 だが部屋の隅の小さな灯の薄明かりのなかで見る彼女の面長の顔はいつもに増して私の好みの顔である。


 わたしはまず顔にさわりたくなった。左右のてのひらで頬を包んだ。唇に触りたくなった。人差し指の先を少し口の中に入れる。中指もいっしょに並べて歯のあいだまで入れる。不意に思いついた自分でも不可解な行為である。彼女は少しの間、眼を閉じていたがすぐに開け、そしてゆっくりと私のからだに腕をまわしてきた。

その所作には時間を気にして事を急いでいる風情はなかった。

私も抱いた。彼女がおどろくほどの力がこもっていたはずである。彼女に対し性欲だけではない感情が動いた気がした。

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