極楽での居場所この世での居場所

 絵とか像とか文章とかであの世が紹介、解説される。古今東西のいろんな宗教の教義にのっとって。世界中のその数はそれこそ無量といっていいのかもしれない。そこでは地獄、極楽などの解説がなされているが、いつも思うことだが仏教にしろキリスト教にしろ、他のなに教にしろ、どうも、どれも、この世の人間の想像の域を出ていない。

 あたりまえだ、と言われそうだが、しかしあの世の有様をこちらの人間の知恵で顕わされても、それをもって存在の確固たる証拠と看做せるものか。そこを、私は疑うというか残念ながら証拠たりえないと思ってしまうわけである。それを疑わず、『なるほどそうなっているのか』と、すんなり納得してしまえる人は、つまり、その宗派の信者になっている証しということか。


 それから、もうひとつがてんがいかないのは、たとえば絵画では天国、極楽はそこかしこに花咲きほころび、音はなくてもなにやら妙なる音楽が天上より流れているのではと思える雰囲気のなか、天子様らが静粛なご様子で立っておられたり座しておられたり、あるいはそこかしこでくつろいでおられる風な御様子が描かれているのを見かける。    

そこでさて、我々衆生のものは、その場のどこに居ればいいものか。

実際まるで見当がつかない。同格ではないから、その場といっても一段低い座だろうが、ただただ終日、来る日もくる日も手を合わせ拝み続けるわけにもいくまい。それぞれ生活、営みというものがあろうから。また拝まれる方もそれでは鬱陶しかろう。お互い気まずいだろう。

 そのあたり一体どうなっているのか。

     

 では、こちらにおわします神様や仏様のご様子はどうなのかというといろいろの態の方々がおられるが立っておられるにしろ座って居られるにしろ、じっと静止されていることに変わりはない。しかし、じっと動かずに居られるのを、さぞお辛かろうと感じるのは衆生の勘ぐりだろうか。それに加えて、居られる場所も建物のなかとは限らない。おじぞう様を筆頭に屋外で雨風にさらされても耐えて過ごされている方もおられる。 

 いやもしかしたら衆生が去ったら、横におなりになってゆっくりくつろいだりお眠りになっているのかもしれない。だとすれば真夜中とか突飛な時間に伺うのはご迷惑だろう。             

 くつろがれるということで連想すれば京都の三十三間堂には縦横列をなしてたくさんの仏様がぎっしりと並んでおられる。窮屈ではないだろうか。がまんのない私などには、とても耐えられそうもない。

 だが、恐らくあそこは夜は部外者は立ち入り禁止だろうから、たがいに間隔をとりあってくつろいだ体勢になっておられるに違いない。

まこと、ことほど左様にこちらの神様や仏様は苦労しておられる。

そこへいくと、こちらの場合われら衆生は楽である。  

 あちらの場合は休憩時間はない。24時間神様と共に過ごしているのだから。

ところが、こちらの場合は拝んだ後は自由にすればいい、というか自分の日常生活に戻ればいいのである。  

 神様のまえでは、遠慮してがまんしていた屁もひとりになればおもいっきり放れる。いや、人前であろうと、衆生どうしでなんの遠慮が要ろう。

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