天動説のやすらぎよ
ガリレオが世紀の大発見をした。
地球が宇宙の中心にあり、その周りを太陽、月、星々が回っていると全人類は思い込んでいたのに、なんとあろうことか、それは永年の人間の錯覚で実はじっとしている巨大な太陽の周りを実はちっぽけな地球がこま鼠のごとくクルクルと周っていることを見つけてしまった。
当時の人は皆びっくり仰天したことだろう。それに恐らく太陽と地球の大きさの差にはさぞがっかりしただろう。信じたくない気がしたことだろう。もちろん正確な大きさの違いはガリレオには分からなかったが、後の観測で太陽の直径はなんと地球の109倍と確認された。
当時のカトリック教会がこの地球の方が太陽の周りを廻っているという事実を認めなかったのは教義上の問題もさることながら、それ以前になんと言おうか地球の方が太陽の周りを回っているという地球の従属的立場が感覚的に不愉快で我慢がならなかったのではないだろうか。しかも太陽の方がだんぜん大きいと聞かされた日には。
そのことに私も同様の思いはあるが、その後の観測技術の向上で、太陽系の領域がすなわち宇宙の果てではなく、もっとずっと先があり、目くるめく大規模構造であると学者連中から解説されると事実はどうであろうとカトリックの教皇ならずとも誰しも驚きと同時に、地球は宇宙に浮かんでいるとはなんと、たよりない境遇に置かれているのかとはかなく、心細い思いが湧き起こらないだろうか。
私はそういう思いを禁じ得ないのだが。
ガリレオ以前はこの世とはこの地表のことを指し、どこまでも地平は続き、海もどこまでも広がっていて、それがこの世のすべてと思い込んで暮らしていたのである。見上げる空に浮かぶ昼のお日様、流れる雲、夜のお月さま、たくさんのきらめく星々はあくまで大きなスクリーンに映し出された、この地表に付属しているバックグラウンドというような位置づけで眺めていたのではないだろうか。つまり、お天道様の方が動いている平らかな、どっしりした地上に暮らしていると信じて生きていた。
ところがあるとき地球が丸いと知らされて、うれしい、それは喜ばしいという気持ちになる者がいるだろうか。反対側にいる者は落ちてしまうではないか。おかしな話だが、落ちるといっても空に向かって落ちることになる。なんたることか。わけが分からない。
ということは、この地球は、なんと空中に浮かんでいるということになるのか。そして、ただ浮かんでいるのではなく太陽の周りを廻っている。しかも地球は太陽の周りを廻りながら自らも1人でくるくると廻っているというのである。そして月はこの地球を軸にしてこれまた、廻っているというのだ。
そうして、はたまた太陽系はどうかというと銀河系のどこかを中心と見立ててやはり廻っているという。ひと周りするのに何億年もかかるらしい。
そういう按配から察すれば銀河系もなにかを中心に廻っている可能性は大いにあろう。
星たちは自分が宇宙の暗い空間のなかのどこにいるのかも知らないまま、文字通り宙ぶらりんの状態で中空に浮かんでいる。そうして小ぶりの方が大ぶりの星の周りを、その大ぶりも、もっと大ぶりの周りをと、その関係は、ややこしく騒々しく廻り合いをしてばかりでじっとしているものはない。実になんとも落ちつきがない。
こんなことでは私も気分が落ち着かない。
もし現在も人類は宇宙の知見をまったく持たず、自身もまわりの人々も、この地上がこの世のすべてと思い込んで暮らしていたとしたらどうだろう。何か不足があるだろうか。ただ言えることは、きっと安らかな心持ちで生きていられるに違いないだろうということ。
宇宙のことを知れば知るほど自分の、人類のあるいは地球の立ち位置の不安定さ、不明瞭さに気づき、あんぐりと口を開けたまま空を見上げ、人間の境遇の儚さにため息をつくという風情を思い描く。
常に私の心を過ぎる一つの思いがある。それは「知らないということ」である。知っているということは疑う余地なく高尚で価値のあることとされているはずだ。
私はその常識を事あるごとに疑うものである。
科学者はこの宇宙の理を知ろうとどこまでもあくなき探究を続けていくことだろう。それは人間に備わった習性と言ってもいいかも知れない。しかし常々主張しているように人間には如何ともしがたい知ることの限界がある。つまり人間の知見は有限なのである。ということはノーベル賞クラスの発見をした科学者の持つ知識と未開の地でいまだに文字さえ持たないで生きている部族の人間の知識の差は、もしかしたらたいしたものではないと言えるかもしれない。
言うまでもなく知見の限界とは「宇宙の外に出なければ宇宙の本質は分からない」ということを指す。その意味において第一級の科学者も、無知蒙昧とされている未開の部族の人間も大差ないのではといっているわけである。
いくら博学の学者の知恵といえども断片的な枝葉末節の知識であり、かゆい所に手の届かなさは似たり寄ったりといったところではないのか。
つまり、そうであるなら宇宙探査もそう慌てる必要はなく、あるいは、いまだに天動説のままで、地球は平らでのどかに落ち着きはらって存在していると信じて空を眺めている人がいてもなんら構いはしない。そういう心穏やかに暮らしている人たちに「いやそうではなく実は地球はまんまるの形をしていて、地球の周りを太陽が廻っているのではなく逆で、太陽の周りをこの地球が廻り続けているんだ」などと知ったかぶりに、絵図で示したりなぞして教えるとかはお節介、余計な世話なのでは。
あるいはまた、人間の知りたい欲は宇宙と並行して微小の世界へも向かう。物体、空間は何でできているのか。分子は原子に分解できる。さて原子は何からできているか。原子は陽子・中性子・電子なるものに分けられる。
これでついに、やっと一番小さい究極の単位に行きついたと安堵の胸をなでおろしたのもつかのま、それらもまだ究極ではなく素粒子というもので成り立っているという新たな事実が分かったのだ。
こんな調子で次から次と細かく分析されていき、なんと、どうやら素粒子も何かから成り立っているらしいことが分かりかけているそうである。それがなんなのかはまだはっきりとはわからないがその単位があることだけは科学者間では確実視されているとのこと。
しかしである。科学者にとっては次から次へと新たな発見をすることは何にも勝る愉悦だろうが、そうではない者・一般の人間にとってはどういう意味があるのだろうか。
「へえー、そうなのか。ものはそんなに分解できるんだ。ふーん」といった感想だろうか。そして次は、この発見は人類にどう役立つのだろうという風なことに考えが向くかもしれない。想像もつかないが、たぶん人類の宇宙進出に必要な大事な知識の一端を為すのだろうとか。
学問、知識、科学、数式、発見、発明、思想、文明、そういうものを次から次と蓄えて人類は進歩した。依って人間はたいしたもんだ、という趣旨の解釈に至る。大方の論者は。
もっと高度な文明を持つ異星人はいるかも知れないがここまで発達した知能を獲得した我々人類は、なんというか、異星人と比較しても、まあいい線いっているんではなかろうかとか何の根拠もありはしないが内心うぬぼれているという気がする。
しかし私はいい線いってるという想像がしづらい。ある星の住人は人類の石器時代に相当するレベルにあり、またある星はいまだ恐竜の天下の時代にある。はたまたある星は人類のレベルをはるかに超えて、重力を思いのままに操り空間を上下左右すいすいと移動でき、もちろん空中での静止も難なく行う。病気も克服してその結果寿命が延び三百歳くらいが平均寿命らしい。難儀な作業はすべてロボットにやらせる。つまり仕事、労働なるものは存在しない。頭と体を使いはするがそれは仕事、労働以外に対してである。
まあ、こういったところが想像の限界だろうか。
しかしおそらくそういう類いの想像はまるで見当はずれに思えてならない。ではどうなんだと言われれば返事に屈するが何と言おうかまったく想像も及ばない、想像を絶する世界が存在する気がするのだ。
もちろん現象面において随分な差異があろうが、まず根本的なものの見方考え方、つまり価値観がお互い理解不能、一点の共通認識も得られないといったことになるんでは、という不安が湧く。
よく数式だけは宇宙共通だろうから、かなりの文明に達している異星人なら、まず出会いがしらには数式をかざして、その内容を咀嚼してもらい、それをもってなにがしかの接点を得、友好の手がかりにしようというアイデアを聞くことがある。しかし、どうだろう。そういうどっこいどっこいの文明度の異星人とたまたま出くわすといった都合のいいことの起こる確率がどれだけあるだろうか。
いまだ石器時代にとどまる方の異星人ではなく人類より進んだ文明を持つ異星人の場合の想像をするに、その進み様は多分桁違いで人類にはまるで理解不能、手も足も出ないほどの差があるのではないだろうか。
どのぐらいの差か、あえて例えを作ってみる。数式の認識においては共通なのでは、という望みをもっているが、数式どころか数なるものを用いているかどうかさえあやしい。そういうものに頼るレベルは遙かに超えていて数などかぞえる必要はなくなり数という概念をわすれてしまっているかもしれない。
コミュニケーションも言語を使うという方法ではなくなっている。
ではどういう方法を使うのか、もちろん皆目何の見当もないがつまり途方もない差がある可能性の方が高いのではと言いたいのだ。なにもかも。
何故かと言うと、今見ている星の光は何億光年前の光で今現在のではないという。これほどの時間差が星と星の間にある。何億光年という時間の長さをどうやって実感することが出来るだろうか。光が何億年かけて達する距離及び時間。これ以上の説明はしようがない。どういう例えも思い浮かばない。
何億年いう時間の長さなぞ言ってみるだけで実はあり得ない、実態のない単位なのかも知れない。
つまり、そういう認識不能の時間の差があれば必然のこととして個々の星は遠ければ遠いほど桁外れの文明の差異というか違いが起きているという予想が妥当におもえるのだ。
ことほど左様に宇宙のことは思えば思うほど心持ちは安らかの逆、そわそわした不安な気分に陥る。
「知らぬが仏」という言葉がある。
天動説のままで暮らしている人はこの日本にもままいる。たとえば私の母親などもその内にかぞえて差し支えないだろう。母も地動説の方が正しいと誰かに聞いたことは昔あったに違いないが、いまでもそれが合点がいっている風はない。
母だけでなく、もしかしたら日本中、世界中には驚くほどの割合で天動説派がいるような気がしてならない。いや天動説派と呼ぶよりも、もっと正確に表現すると無関心派というべきか。まったくか、もしくはほとんど興味がそういう方に向かない人間が全人類のなかに相当数いるに違いない。私の当てずっぽうだがその割合はあんがい全人類の1割や2割どころではない気がする。私の母を含めて。
しかし何の興味もないからといって、だから別段どうということもありはしない。
地球が自転をしながら、なおかつ太陽の周りを廻っているなんどと思いたくない。むしろ知らずにいたかった。いつか何かの拍子に止まってしまったらいったいどうなるんだ。みんな宇宙に放り出されるのか。
ああ天動説よ。天動説の方が正しい。そうであってくれたらどんなに落ちついた、安心な心持ちで日々暮らせることか。
地球はどっしりと微動だにしない。お日様の方が毎日地球のご機嫌伺いに東の空から顔を出し日がな一日、やわらかな光をそそぎ地上のすべてのものに生気を与え、役目を終えるとやがて西の空から姿を消す。人間は太陽に感謝の念は持たねばならないがあくまで主従の関係ははっきりしている。太陽は地球の意志に従い従順に勤勉にいつまでも変わることなく地球の周りを廻りつづけるのだ。ことほど左様に天動説は実に甘美な安らぎをこの地上界に住まう人間に与えてくれるのである。
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