どこに何が

どこに何があるのか

何がどうなっているのか

何が見にくいのか、何が見やすいのか。

何かを笑ってはみるがおかしいのか、実はぜんぜんおかしくないのか。

これまで大人と出合ったことがないのだが    

本当に大人はいるのだろうか。子供と大人の境目なぞあるはずはないが歳が二十歳に なったから一応、大人ということにしよう かといったところか。誰もみんな大人ではなく実は子供のままなのに人が大人と見做したり、電車の料金が大人の料金になったりするのでいつの間にか自分は大人というものになったと錯覚してしまうのである。何もかも錯覚、思い込みばかりかも知れない。 日々、大人の振舞いの真似をしているうち、真似が板につくといつしか自分の判断、考えで行動している気になってゆく。

たいていの者は二十歳どころか、幾つになろうと自説を持たないまま。

といえば言い過ぎになるかも知れないか。


 言い過ぎと言いながら、もっと言うと、人にはそれぞれの個性というものがあると世間では、もっともらしく言い習わす。そういう場合、個性というものを人間の美質のようなニュアンスを含んで語られる気がする。

でも、いったい個性とは何を指すのか私にはよく分からない。

個性的なファッション

個性的な顔立ち

食べ物の好みが個性的

こういう類いの個性の使い方はナンセンスな気はするがまあ、ほっとこう。


肝心なのは性格の個性だろう。では個性的な性格とはいったい、どういう風な性格を持つ人物の場合いうのか。私には皆目見当が付かない。たぶん性格に個性は見いだせないだろう。

その人の具体的な表現そのものにしかその人の独自性は見いだせない。独特の感性の持ち主という言いようがあるが、そういうものも具体的な表現があってこその発見ではないであろうか。


別の言い方をすると人の性格だとか個性だとかの曖昧な抽象的な事柄に気をまわさず、つまりは目に見えるその人の具体的行動、その人のなんらかの形の具体的表現のみを吟味すればいいのではないだろうか。


 しかし、それにしても齢六十を越えてなお世の中なにがどうなっているのかはっきりしないことばかりである。なにが見えているのか、なにが見たいのか、何処へ行きたいのか、何処へ行くべきなのか、いまだ皆目見当がない。だからといってなにをどうしようもない。なにも思わず、ただ死ぬまでは生きていけばいいのだろう。

「六十にして耳順」とか論語にいうがそんな理想郷があるはずがない

そのわけは元々に鑑みれば、すぐ合点がいく。

大人にさえなれてないのに、「悟りの境地」なぞという高尚な境地に達したりできるわけがなかろう。

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