ひとりにひとつずつの宇宙

プロ野球、東京ドーム、巨人ー阪神戦の観客5万人のなかの一人、あなたが心臓発作で倒れた。

 あなたの周りにいた何人かがそれに気づき、誰かが球場の係員に知らせ、係員はあなたを担架に載せ球場外に運び、そして救急隊員が救急車に乗せたが病院に辿り着かぬうちに残念ながら死んでしまった。

 でも、あなたが球場で倒れて死んだからといって、試合はそのまま何事もなかったように続けられ、5万人の観客はゲームに熱中している。

 5万人のなかの一人が、この世を去った。生きている観客の認識ではあなたが一人この世から退場したことになっている。

 しかし、あなたにとっては、あなたがこの世にいなくなったということは、どんなことを意味するのだろう。

 実は観客の方こそ、この世の方こそ、あなたの前から退場したのである。  

あながち言葉の彩とも言えないのではないのか。生きている側から見れば、残った観客たちは生きて引き続きゲームを愉しんでいるのに、かわいそうにあの人はうっかり死んでしまったという解釈かも知れないが、あなたから見れば観客たちの方こそいなくなったのである。

 地球上に生きる人間は、この地球上を共有し、連続する時間のなかで「澱みに浮かぶ泡沫」のような、儚い一生を終えると感じてしまうが、一人々々の意識に存在の全てがあり死ぬと「一つのこの世」は、あとかたもなく無に帰す。

 この世こそ無くなってしまうのである。あなたがいなくなるということは、この世がなくなってしまうことなのだ。

 ちなみに私はほぼ世間の常識のように扱われているビッグバン説は採ってないが、あったにせよ、なかったにせよ、そういう種類の疑問は生きている間に解けはしない。死んで後始めて合点のいく事柄ではないか。

 さて、だから宇宙の数はいくつあるかというと、諸説あるが一人に一つずつあることになろう。つまり一億や二億どころではない。人間の数だけ、宇宙はあるのである。今生きている人間の数だけでなく、過去生きていた人間も、もちろん含まれる。まさに無量としか言い様のない数ほど宇宙はある。

 しかし数の多さや空間の広さにびびることはないだろう。数や広さなるものは、あくまで相対的なものに過ぎない。何と比較して多い少ないと言い、どこと較べて広い狭いと言うのか。

 いっしょに生きているから、この世を共有しているような錯覚があるが実は一人々々のこの宇宙なのである。親が子を生み、その子がまた子を生みと人類は連綿と繋がってきたのは事実だが一人々々の意識はその人だけのもの、その人が死ねばひとつの宇宙が消滅したということになるのだろう。

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