死ねば「無」のほうがましか

 我が身のこれから先に思いを巡らせてみるとすれば、やはり、いつかは死ぬというところに行き着かざるを得ない。

 その、いつかは誰しもはっきりとは分からないが明日車に轢かれて即死とか突然死に見舞われただとかの不測の事態は除いて考えるとすれば、自分の親や、いままで見てきた誰彼の例からおおよその見当は付く。

 しかし不測の事態で幾ら若死にしても、寿命という観点から言えば、それがその人間の寿命なのではあろう。

 さて、それではその先。死んだら何が起きるのか。あるいは何も起こらないのか。

 さっぱり何の見当も付かない。万人の疑問である。

 宗教では間違いなくあの世はあることになっている。どんな流儀の宗教であろうとあの世はあることが大前提であり、ないという流儀の宗教はない。あるという前提が信じられなければ信者にはなれない。

 スウェーデンボルグという人が何かの拍子にあの世を見て、その様子を書き残した書物があり邦訳の題名は「霊界日記」といい何百頁にも及ぶ大長編だという。読んではいないが紹介している本でおよその内容を知った。

 大長編というのも理由なのだが、どんな内容であろうととうてい信じられる話ではない。いくらああだ、こうだ説明を聞いても実際に見たことが今だない。見たことがあるという人にも実際に会ったこともない。

 1度私は全身麻酔を経験した。二十代の頃、胃を切除した際のことである。

 これから麻酔をしますと医者が耳元で告げる。そして鼻も口も塞げる麻酔マスクを被せられる。すると意識がなくなるわけだが、次第に意識が遠のいていくなどという按配のものではない。意識が途切れていくという認識が持てないのである。

 意識が戻ったらICUのベッドにいた。その間の時間感覚は1秒、いや0秒と表現すればいいだろうか。

 普段、眠ってやがて目を覚ますのとは全く違う感覚なのだ。夢も見ずに寝入っていたという言い方があるが、といっても起きた時それでも時間の経過は感じる。それは寝ていても意識はあるからだろう。

 だが麻酔を施されて、それから醒めるまでの間の時間はゼロなのだ。死後の意識の有様を想像するとき、この経験以外に参考に出来るものは何もない。

 良くも悪くも味気なくも、いつかは誰しも何もない存在になるのだ。いや存在が何もなくなると表現した方が少しはましな表現か。

 とにかく曖昧な、想像の域を超えた事象を表現することは無理なのだろう。ゼロ、無などという状態、概念は数学上の記号であって実感も認識することも出来はしない。

 こういう想像は気持ちのいいものではないが、生きている者にとって死んだ後のことは未知の事柄なのだから不安になるのが当然だろう。こういう風に、生きている間は感情の外には出られない。常時なんらかの感情を懐いて生きている。

 ところが死ねば感情の外に出られる。辛いも悲しいも面白いも可笑しいも何もない。存在が無なら当然感情も無と看做して差し支えなかろう。

 それはそうと一つ気のついたことがある。この世は理不尽極まりない、不公平が満ち満ちている。親は選べないという言葉には生まれた瞬間からその子供の境涯は定められているという意味が込められているはずである。子供はそれこそ全くなんにも自分で選べるものはない。男か女か。健康体か、そうでないか。

 国は日本かアメリカかそれとも北朝鮮か、はたまたアフリカの名も知らぬ国か。

、生まれるという根本的なところから人間界のいかんともしがたい不条理が待ち構えている。

 それでは人間及び生きとし生けるものの平等、公平がついに実現するとき、あるいは実現するところとは。

 それは生きてあるうちは無理。

 死後に求める他あるはずはない。悲観的過ぎるとは全く思わない。人間の知恵ではこの世の不条理をどうこうできるわけがない。ただ、もしあの世が存在するならば、この世と同じ体たらくのような気がしてならない。あの世など存在せず「無」に帰する場合のみ、「無」なのだから、すなわち公平と見立ててみただけのこと。

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