知らない自慢
知らないことが自慢にならないものだろうか。
私は新聞もテレビもニュースを少々見るだけで他はほとんど見ない。ニュースも禍々しい事件は、なるべく見ないようにしている。目を覆いたくなるような事件は目を覆っているわけだ。とはいっても、そんな事件がほとんど毎日起こるのだから、見ないのを心掛けていても、どうしてもついうっかり見てしまう。
さて一般に世間では何事であろうと、たくさん物事を知っていることは疑うまでもなく、いいことであり、その人は尊敬される。尊敬されるというと大袈裟なら、その逆の何も知らない人よりは何というか、価値ある人間と見做されるだろう。
世間の評価は、まあそれで仕方なかろうが一人一人の個人にとって、それはどうなのだろう。
例えが合っているのかどうか分からないが私はギャンブルの、具体的にいえば競馬の賭け方を知ったために随分お金を失ってしまった。私にとって決して少ない額ではない。
そのかわりギャンブルの面白さを味わったのではないかと問われそうだが、どうなのだろう。馬券が当たってこそ、儲かってこそ面白いのであって有り金を全部はたいて帰る道すがらのみじめさはたとえようがない。
そして、大概はみじめな結果をむかえる。
昔は夢中になっていた時期があったが今は夢中になれなくなった。長年の癖で今も時々やっているといったところである。
次に所謂、知識なるものはたくさんあればあるほど立派な、いいことなのであろうか。世界には文字もなければ、数字も存在しない。1+1=2 を何度教えても理解できる者がついに一人もいなかったといった按配の部族がいるそうだ。漁と狩だけ、畑で作物を栽培することは考えない。つまり伝承、文化らしきものがほとんど無きに等しいらしいのだ。日本でいえば縄文時代あたりの暮らしぶりか。
ものを知らないことを自慢に思ってはいないだろうが苦にはしてないだろう。1+1=2を覚えよう。覚えて何かの役に立てよう、という考えが浮かばない。
穀物、野菜を作って食べれば食事の幅が広がり、定住が出来、つまり生活が安定するということに思い至らない。しかしそれも、まったく苦にしてないだろう。まるでそんな考えは意中にない。
また、見聞の広い、狭いということもある。しょっちゅう海外を旅行している人、反対に離島に生まれ育ち、修学旅行以外、島を離れたことがない人。
外国で色々見聞きすれば、さぞ話題豊富なんだろう。他所に出かけたことがなければ、話題は少ないだろう。しかし、それがどうした。生まれてきた以上たくさん見聞きした方が価値があり得な人生で、井の中の蛙は損な人生なんだろうか。
それを測る物差しなぞ、この世にあるはずがない。
昔、賭け事に凝っていた頃、大井競馬場へ通っていた時期があった。品川からモノレールで行く。終点は羽田空港。その2つ・3つ手前が大井競馬場前である。ここで降りる連中は私も含めて一生、うだつの上がらない人間だろう。当時、羽田空港は国際空港であり、このモノレールには、ろくでなしと国際的エリートの両極端が乗り合わせているんだな、という感慨が乗るたびに起こってきたものだった。
東京スカイツリーに登って、ぐるりを見渡すと東京すべてを見た、東京すべてがわかったつもりになったとしたら、それは間違いなく錯覚である。
宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めて地球を丸ごと理解したと思ったとしたら、それも、まちがいなく間違いであろう。飛行士は、詰まるところ、その位置から地球をみた。ただそれだけのことである。
地球に帰れば、見聞のこの上なく広い人物として迎えられるわけであるが、私は宇宙飛行士に訊きたいことは特にない。
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