終章 マザー

 西村先生にM字開脚で寝転がるよう指示されてピンときた。

 出産だ。


 従来は男女の肉体的性差から男性は女性の生理痛、女性は男性の睾丸炎を再現できないでいた。


 脳地図(体性感覚、脳の中のホムンクルスともいう)にそもそも対応する場所がないのだから当たり前といえば当たり前の話だった。

 たとえば金玉をぶつけた痛みをご婦人にわからせようとキャンパスで無理やり再生しても膝が痛むだけだったりする。

 脳のアドレスに空き領域はないのだ。


 それが最近になってキャンパス自体を補助脳として一時的に増設する技術が開発された。

 これにより男性医師でも婦人病の診断ができるようになったと報じられていた。

 西村先生は早速その機材を導入したようだ。


 急に腹が張りはじめた。

 まるでひどい便秘になってしまったような感覚だ。

 膨満感はおさまらずついにはスイカかビーチボールが腸に詰まっているような恐ろしい錯覚におちいった。

 そう、ここからはすべて擬似体験、幻の痛覚ファントムペインとなる。


 仮想脳で後付けされた子宮が陣痛を告げていた。

 子宮の収縮とともに下痢と便秘を併発したような未体験の痛みが定期的に腹を締めつけてくる。

 やがて子宮口が開きはじめ激痛の荒波と穏やかななぎが交互にやって来た。

 そしてついに子宮口が全開となり痛みが頂点にたっするとそれまでうなり声をあげていた変態紳士の群れはこの世のものとは思えぬ咆哮をあげはじめた。

 わたしも喉が裂けるほど叫んでいた。


 未知の臓器から襲いかかってくる存在しない苦痛にパニックに陥りかけたとき耳に届いたリズムがあった。

「ヒーヒーフーハァ」

「ヒーヒーフーフッ」

 西村先生の呼吸音だ。

 たしかラマーズ法だったか。藁にもすがる思いで真似をする。

 周囲の者もわたし達にならいラマーズ法をはじめた。

「ヒーヒーフーハァ」

「ヒーヒーフーフッ」

 むくつけき変態紳士の合唱が広い会場をどよもす。


 滑稽だろうか?

 滑稽なのだろう。

 なぜこれほどまでして苦痛を味わおうとするのだ。

 わたし達を異常者と指さすなら日本人全員がそうだともいえる。


 なぜか日本では無痛分娩が普及しない。

 わざわざ痛みを感じようとはしていないか?

 曰く「出産の痛みを通過しないと母性愛が生じない」

 などとのたまう輩までいる。

 痛みはそれほど尊いものではない。

 アルゴフィリアの自分がいうのだから間違いない。


 苦痛に耐えることを美徳と勘違いしている阿呆のなんと多いことか。

 我々からすればそちらのほうがよっぽど異常だ。

 悪しき精神論に染まっているとしか思えない。楽な道を選ぶことに罪悪感をおぼえるのはおかしな話だ。

 根性を振りかざして辛い方を選ばせようとし、そうしない者達を白眼視する。これが正常なことだろうか。

 苦しみを堪え忍ぶことに自己陶酔しているだけだ。

 難行苦行、その先に崇高な何かがあると思い込んでいる狂信者となんらかわりはない。

 そんなことは修行僧にまかせておけばいいのだ。


 わたし達はだけだ!

 こちらのほうがよほどまともな気がする。

 まぁアルゴフィリアのたわ言だが……。


「産まれるー!」

 そうこうしているうちに出産は佳境にはいり絶叫がホールを支配しはじめた。

 骨盤は割れ砕け産道が広がって胎児が間もなく姿を現そうとしていた。

 いきむ、いきむ!

 もう少しだ頑張れわたし!頑張れ我が子よ!

 残された最後の力を振り絞って吼える!わめく!泣き叫ぶ!

 阿鼻叫喚とはまさにこのことだ。

 出産を、鼻からスイカを出すようなものという喩えがあるがそれ以上の破壊力だった。

「うおおーっ!」

 ついに最後の瞬間を迎えた。

 赤ん坊の誕生だ。

 それまでの痛みが嘘のように引いていき、えもいわれぬ感動が全身をつつんだ。


 我にかえって股間を確かめるがそこには脱糞を受け止めた大人用紙オムツがあるだけだった。

「わたしの赤ちゃんはどこ?」

 そんなすっとんきょう声があがってさそわれるよう明るい笑い声がもれた。

 西村先生がおもむろに立ち上がって口を開いた。

「おめでとうございます。体重3310グラム立派な男の子です」

 割れんばかりの拍手が響きわたり、なぜかわたしは泣いていた。





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