第4話 Bは結婚のB その2
プランBの詳細が判明したのは一週間後のことだ。
その前日、琴子お嬢が珍しく、
「明日は所用があるので、今夜はここまで。明日も休みだ」
と言ったので、俺は久々に夜が白む前に眠って、その日の朝も二度寝からさらに三度寝するという贅沢を貪っていた。
うとうとと微睡んでいたところに、隣の部屋から物音が聞こえてくる。重い荷物を抱えた人物が行ったり来たりしているような物音だ。
隣の部屋は確か、今年の春先から空き室になっていたはずだ。ということは、誰かが越してきたのだろう。
俺はいまどきの地縁関係に関心の薄い若者だし、せっかくの惰眠を終わらせたくなかったから、手伝いに行こうとはしなかった。……だが、物音がしばらく続くと、さすがに四度寝するのも無理で、仕方なしに起き出した。
ぱぱっと顔を洗ってシャツとジーンズを引っかけて外に出たのは、べつに引っ越しの手伝いやら挨拶やらをするためではない。ただ単に、食べるものを買ってきたかったからだ。隣室の前を通ったのも、階段がそちら方向にあったからというだけだ。
「……え?」
わざわざ確認するまでもなかった。引っ越しセンターの作業員と一緒になってベッドの部品を運んでいたのは、東雲さんだった。
俺が向こうに気づいたのと同時に、向こうも俺に気がつく。
「おや、これは晴永様。ご無沙汰しております……あ、少々お待ちを」
東雲さんはベッドの部品を抱えたまま目礼すると、部屋のなかに消えていった。俺が呆然と見送っていると、東雲さんはすぐに戻ってきた。
「晴永様、大変お待たせいたしました。」
東雲さんはぴしっと姿勢を正してから一礼する。
「あ……いや、べつに。そんなには待ってないないです……」
俺もぺこりと頭を下げた。
ちなみに今日の東雲さんは、シャツにチノパンという砕けた装いだ。引っ越しの作業をしやすいように、だろうか。
「あの、東雲さん……この部屋に越してきたんですか?」
俺が思いきって尋ねると、東雲さんは柔和に目尻を下げて微笑んだ。
「いいえ。わたくしはこの下の、一階の部屋に住まわせていただきます。こちらの部屋に入居するのは琴子様でございます」
「……」
いきなり突っ込みどころが多すぎて、口をあんぐり開けっ放しのまま固まってしまった。
東雲さんは作業を引っ越し業者のひとに任せて、あんぐりしている俺をにこにこ顔で見守っている。
俺はたっぷり五秒間ほど数えたところで、ようやく声を出すことができた。
「ええと、このアパートに越してきたってことですか?」
「はい、そうでございます」
「東雲さんが?」
「琴子様と
「楓?」
「わたくしの娘です。晴永様も会ったことがございますよ。ほら、車の運転をしていた……」
「ああ!」
「名乗らせるのをすっかり忘れておりまして、大変申し訳ございませんでした。荷物の運び込みが一段落しましたら、本人を連れて改めて紹介させていただきます」
「あ、はい」
俺が間抜けな顔で頷くと、東雲さんのポケットから時代劇の主題歌らしきものが聞こえてきた。
「申し訳ございません、わたくしの携帯です」
東雲さんはポケットから携帯を取りだし、かけていた相手の名前を確認すると、俺に目礼しながら電話に出た。
「はい、東雲でございます……はい。万事恙なく進行しております……はい、はい……ええ、いまちょうどこちらに……はい。畏まりました。いま、お電話を代わります」
東雲さんは携帯を耳元から外すと、俺のほうに差し出してくる。
「え?」
俺が出るんですか、という疑問を込めた視線に、東雲さんはにこりと首肯した。それで仕方なく、俺は携帯を自分の耳に当てた。
「あの、電話を代わりました……あ、はい。晴永、正春です……そうです、本人で……ええぇ!?」
声の感じからして、電話の相手は壮年の男性だった。その男性は俺が晴永正春であることを確認するや、感極まったように号泣し始めた。男泣きというやつだった。この男性は琴子お嬢の父だった。
「ありがとう、ありがとう! もうずっと引き籠もったままで、とうとう山奥にまで籠もってしまって……わたしが何度説得しても聞く耳を持ってくれず、もう娘は一生あのままなのかと諦めかけておりました。そんな娘を、きみは人里に連れ戻してくれた! きみになら任せられると、わたしは確信したよ。これからも琴子を、娘をどうかよろしく頼む。無論、わたしにできることなら何でもさせてもらうぞ。金銭面についても墓に入るまで不自由はさせんから安心してくれたまえ」
琴子お嬢のお父さんはときどき盛大に嗚咽しながら、そんな中身のことを滔々と語り、最後に多忙のため電話での挨拶と謝辞になってしまったことを詫びて通話を切った。
携帯を耳から話した俺に、東雲さんは悪戯っぽく微笑む。
「旦那さまは何と?」
「その顔、分かっていて聞いてますよね」
俺がちょっぴり疲れた苦笑をすると、東雲さんは笑みを深めながら小さく頷いた。
「晴永様のことや今回の引っ越しのことは、わたくしが旦那さまに報告いたしました。そのとき、旦那さまは大変感激なされまして――」
そこまで言って、東雲さんは思い出し笑いを堪えるような鼻息を漏らし、
「こうも言っておられました。無理だろうと諦めていたが、いつか花嫁姿を見られるかもしれんな、と」
「……」
俺はがくんと落っこちた顎を戻すことができなかった。
一風変わった就職先に応募しただけのはずが、このままいったら永久就職しちゃったりしちゃうのだろうか……いやいや! 俺には心に決めた安曇さんがいるんだ! 安曇さん、俺はきみ一筋だよ!
俺が胸中で拳を固く握り締めていると、通路の向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「あっ、東雲……ハルマサ!」
琴子お嬢だ。
お嬢がこちらに駆けてくると東雲さんは横にずれて、俺の正面を彼女に譲った。
立ち止まった琴子お嬢が、俺を見上げて口を開け……一度閉じかけて、また開けた。
「あ……あのなっ」
「うん?」
「あのな……今夜、空いてるか?」
「えっ」
声が裏返ってしまった。
ごめん俺は安曇さん一筋だから――そう喉まで出かかったところで、
「夜までにはネットに繋げるようにしておくから、予定が空いているなら今夜から本格的にきみのレベリングを始めるぞ。いいか?」
「……うん。リョウカイ」
俺は振り子のように、こくこく頷いた。
ふと小さな笑い声がして横目を向けると、東雲さんが口元に手を当てて誤魔化すように咳払いしていた。
今日から仕事がネトゲです。 雨夜 @stayblue
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます