八章:ただ貴女の幸せを
「なんとか切り抜けたが……あいつら一体……」
点々と続く血の斑点を追いながら、先頭を行くタオが呟く。
「分からない……とにかく今は、あの化物を倒さないと……」
数々の疑問を胸にしまい込み、ただ今は想区の調律が最優先とエクスが返す。
「あれ、この方角……火刑台のほうですね」
やがて市街も半ばに差し掛かる頃、ジャンヌは自らが焼かれる筈だった広場を指して言った。
「ここでカオステラーを倒したら、また……」
最後尾で憂鬱そうに独りごちるレイナの脳裏には、先刻のカーリーの言葉が過ぎってでもいるのだろう。――なにせジャンヌの想区を調律した先にあるものは、ただ待ち受けるジャンヌの死だけなのだから。
「――どうしましたか? レイナさん」
ジャンヌはぽかんとした表情でレイナを気遣う。以前のジャンヌなら、ここで
「なんでもないわ……全てが、全てが終わったら話しましょう」
だがジャンヌの代わりに覚悟を決めたのか、頷いたレイナが、足を踏みしめた時だった「おい、あれは!」とタオが叫び、続きジャンヌが「ジル! 無事だったのね!」と駈け出したのは。
* *
「心配をかけたな……私は大丈夫だ……化物を追ってきたんだが……不覚だった……」
ぜえぜえと息を切らすジルの左腕からは血が滴り落ちていて、地面を赤く染め上げている。
「どうしてそんな無茶を……! 早く手当てをしないと!」
そうして手を差し伸べるジャンヌに、シェインが鋭い口調で待ったをかける。
「待ってくださいジャンヌさん……! ジルさん。聞きたい事が幾つかあります」
どうしてと振り向くジャンヌだったが、ジルは「なんだね」と言葉少なに返事を返す。
「……その左腕の傷はどこで付きましたか? 偶然ですね。さっきの化物も同じ場所を切られていました。あなたのコートを纏った、蒼髪の怪物が」
一歩だけ後ずさるジルだったが「城外で散策している時に、窓から出てくる化物に出くわしたんだ。とっさの事だ、気がついたらこうなっていた……では不服かね」と、食い下がってみせる。
「だとしたら腑に落ちませんね。ここに至る血の筋は一本。そして道中の何処にも、争った形跡は無かったんです。ジルさん、あなたは一体誰と、いつ何処で戦っていたのですか?」
止めの一撃がジルの心奥を穿ったのか、うめき声を上げた彼は、観念したとばかりに声色を変えた。
「くっ……やはりお前たちもジャンヌの幸せを阻む敵か……もっと早く殺しておくべきだった。あの男の計らいで生かしておいてやったものを……」
「やっぱり馬脚を現しましたですね。おかしいと思ったのです。主役であるジャンヌですら私たちの存在を覚えていないというのに、ジルさん。あなたは初めから私たちを『異国の人』と、疑念すら無くそう呼んだ……!」
ジルの威圧をものともせずに自身の
「どうしたのジル……? みなさんも、こんな問答より傷の手当を……!」
一人取り残されるジャンヌを他所に、事態を察したタオ・ファミリーは、次々とヒーローへのコネクトを終えていく。
「テキ……テキ……シャルルモ……オマエラモ……ジャンヌヲ……フコウニスル……テキ……!!!」
そしてその頃には、人語を失ったジルの赤髪は蒼く染まり、伸びた髪の合間に垣間見える
「ジャンヌさん……下がって。あれが、あのかつてジルだったものが――、この想区を乱しているカオステラー。私たちは、彼を……打倒さなければならない……」
冷厳に言い放つレイナが魔道書を開くと、それに呼応する様にジル、もとい青髭は雄叫びを上げた。寸時。火刑台に、松明に、青白い炎がぼうっと灯る。
「ミナゴロシダ……ミナゴロシニシテヤル!」
咆哮と共に白刃を振り上げる、青髭の
* *
「速え……なんだこいつッ!!」
盾で防いだ筈の一撃が背中にえぐり込み、タオは鈍い悲鳴を上げた。
「矢が当たらないのです……タオ兄!!」
初芽の矢が尽く躱される現実に
「グゴオオオオ!!!!」
直線では無く天空から振る毒の矢に直撃を受け、一瞬だがジルの動きが止まる。
「今だ!」
ノーマークだったエクスが剣閃を放つと、それに合わせてレイナの禁呪が炸裂――、周囲は一瞬にして爆風に包まれる。
「やった?!」
通常のカオステラーなら既に滅するだけの火力を叩き込んだ筈だ。
しかしそう肩で息を切らすエクスたちの前に現れたのは、外套だけが破れた、今だ
「ちっ、下がれっ! 攻撃が来るぞ!!!」
大きく腹を膨らませた青髭は、これまでの倍返しとばかりに蒼炎のブレスを吐く。辛うじてタオの盾がそれを
「タオ兄!!!」
冷静さを失いかけたシェインを制す様にエクスが踊り出「――僕が時間を稼ぐ! レイナ、タオを回復してやってくれ! シェインは二人の援護だ!」と指示を出すや、単身青髭に向かって切り込んでいく。
「くっ……耐えて……エクス……!」
ヒーローとのコネクトが解除され、生身をさらけ出したタオを引きずって、レイナは後方へと移動を始める。それを追おうとする青髭だったが、阻んだのはシェインの矢だった。
「新入りさん! 借りは今度返しますです!」
タオの妹分の精一杯の感謝の言葉に、剣撃で応じるエクスは、既に理性を失っているであろう青髭に語りかける。
「ジルっ! あなたがジャンヌを救いたい気持ちは分かる! でも、だけど、カオステラーの力を借りた運命の
キンッキンッ、鋭い刃のぶつかり合う音が広場に木霊し、勢いに勝る青髭の刃が、エクスの剣を弾き飛ばした。
「くっ――、強いッ!」
尻もちをついたエクスの前に、白刃を掲げる青髭の
「オレハ……ジャンヌヲ……スクウ。スクウ!!!」
「なんで分からないんだッ! あなたが
ジルの叫びに張り合うかの様に響いたエクスの声は、僅かだが青髭の動きに惑いを与えた。そしてその刹那の惑いから意識を現実に引き戻す頃、青髭は「ウウッ」と呻き、それから自分の腹を貫く、一本の剛槍に気がついた。
* *
「ジャンヌ……ドウシテ……」
青髭に
「思い出したわ……何もかも。ジル。私はジャンヌ。――ジャンヌ・ダルク。この想区を背負いし者」
「チガウ……オマエハ……」
驚きと絶望を顔に浮かべ、青髭がジャンヌに眼を向けた時、パチパチと何処かから拍手の鳴り響く音が聞こえた。
「流石は主役――、ジャンヌ・ダルク。自らの意志でカオステラーの改稿に抗い、本来あるべく物語を取り戻そうと武器を手に取る。素晴らしい意志の力です!!!」
火刑台の上、青白く炎が灯る中にぼうと姿を現したのはロキ。紫のマントに身を包む気障な青年。そしてその隣には、見覚えのある少女、カーリーもちょこんと座っている。
「カーリー!?」
タオを治療するレイナが、真っ先に頓狂な声を上げる。カーリーはニコリと一度だけ微笑むと、光の無い目で広場を見渡した。
「人間は生まれながらにして、自由の刑に処せられていると、さる哲学者は言います。ですが運命の書に従い、何らの疑念も無いまま生きる想区の住人たちは、その罪すらも背負っていない。――言わば愚神の言いつけるまま、
普段のおっとりとした口調とは異なり、断罪するかの様に告げられるカーリーの声に、周囲は反論すら失って沈黙する。
「――我らは取り戻さねばならない。奪われた自由を、禁じられた果実を、遠ざけられた火を、空白の書を……もう一度人の手に」
「ク……ロキ……キサマ……」
だがカーリーの演説を
「おやおや。もうあなたの出番は終わったのですよ。オルレアンの乙女に
「さつじんき……?」
ジャンヌがロキの言葉に、僅かだが疑問符を付ける。それを見逃さない
「おや聖女様。なるほど途中で歴史の表舞台から退場する貴女はご存じないでしょう。盟友ジル・ド・レが、貴女亡き後どのような道を歩むかを」
さあフィナーレだとばかりに身振りを大仰にするロキは、青髭を見下ろして言う。
「クフフッ。その男はねぇ、ジャンヌ」
「ヤ……ヤメロ……」
「処刑された君を蘇らせる為に」
「ヤメテクレッ!!!」
「何百人も人を殺したのですよ。悪魔に捧げる生け贄としてねッ!!!!」
「ウオオオオオオオオオ!!!!」
遂に堪え切れないとばかりに飛び上がった青髭は、火刑台のロキに向かって渾身の一撃を加える。
「おっと、危ない危ない。たかがカオステラーの、それも手負いに、僕たちを傷つけられると思いますかね」
くすくすと笑うロキだったが、隣に座るカーリーは真剣そのものの表情だった。
「ロキ。
見ればジルの連撃は、ロキが張ったであろう結界に亀裂を入れ始めている。元々青白い顔から、さらに血の気を失したロキは、カーリーを庇う様に抱き寄せると「巫女様、失礼を」と囁く。
「――なるほど。参考になりました。前言は撤回致しますよ、ジル・ド・レ。あなたの意志は、確かに運命の書を凌駕した。それに免じて、本日はここでお
言うや闇に消えたロキたちの後には、
* *
「――すまなかった……ジャンヌ」
命の喪失と共にカオステラーの呪縛から解き放たれた青髭は、以前のジルの姿と、そして言葉を取り戻していた。彼を抱く様に座るジャンヌは、ただ哀しい目で盟友を見つめる。
「いいの、いいのよ、ジル」
だらんと伸びた手を握りしめたジャンヌは、精一杯の笑顔でジルに応えた。
「君に出会えてから……私の人生は変わった。
ぽつぽつと語るジルの姿に、その場に居る誰しもが耳を傾け、そして言葉を挟もうとしない。
「だのに。だのにだ。あの日……君が焼かれるあの日……私は何も出来なかった……周囲を埋め尽くす敵の軍勢に怯え、刺し違えようという意気込みすらもかき消された……虚空に手を伸ばし、君の名を心で叫び、いっそ呪ってくれと願いながら……君の清らかな祈りだけを聞いていた……無力な……」
ジャンヌはただ黙って頷く。ジルの表情に、少しずつだが血の気が戻る。
「私は、力が欲しかった……神が君を救わぬのなら、人が君を救えぬのなら……たとえ悪魔に魂を売ってでも、この運命を
安らぎと引き換えに力を失う声に耳を傾けながら、ジャンヌは子供をあやす母親の様にジルの頭を
「大丈夫。悪魔はもういなくなったわ。ありがとうジル。あなたが私を助けてくれたから――」
「助けられなかったんだ……私は……誰も……」
許しを請う瞳をジャンヌに向けるジルに、聖女が囁いたのは聖書の一節だった。
「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく。我らの罪をも赦したまえ――」
子守唄に聞き入る様にジルが安堵の笑みを浮かべると、彼の手はそのままに空に向かった。
「……おかえり……ジャン……ヌ……今日も……羊たちは……元気だった……かい……」
それはまるで、彼自身が描いた幸せな未来の、結末の断片をかき集めるかの様にも見えた。
「ただいまジル……今日もとてもとても幸せな一日だったよ……」
ジャンヌは応じる様に言葉を紡ぐ。
「それ……は……良かっ……た……」
かくりと手を床に落とし、そうしてジルの身体は、もうぴくりとも動かなかった。
* *
「――ありがとうエクスさん。レイナさん……それからお兄さんと妹さん」
やがて涙を堪える様に微笑んだジャンヌは「全てを思い出しました。随分と心強い方たちに、今回も助けて頂いたんですね」と続けた。
「いいえ、こちらこそ何も出来ず……ただ、一つだけ聞かせて、ジャンヌ」
沈痛な面持ちで問うレイナに「何ですか? 私に応えられる事なら」とジャンヌは応じる。
「……運命を受け入れるという決意、それに揺らぎは無いの……? もし主役である貴女が、この物語を放棄するというなら……」
しかしレイナの言葉を最後まで聞く事なく、ジャンヌは迷いなく答えた。
「覚悟に変わりはありません。私は私の意志で、私の運命を選びます」
「本当にそれで良いの……? ジルさんが描いた物語なら、きっとあなたは幸せに暮らす事が出来る筈。想区の消滅までという、限定的な時間ではあるけれど……」
レイナは言葉を選びながら喋る。ジルの物語がカオステラーの力によるものである以上、たとえ平穏を手に入れたとしても、想区はやがてゆっくりと消えゆくだろう。だがそれでも、火刑に処せられる悲劇だけは変える事が出来るのだ。
「はい。構いません。私たちの
そこまで言い終えてまた微笑んだジャンヌは「――ですが最後に一つだけ、私にも
「うん……分かった」
レイナが神妙に頷いたあと、ジャンヌは恥ずかしそうに俯いて結んだ。
「今日一晩だけ、ジルと一緒に居させてください。私をほんの数日だけ少女に戻してくれた、この愛しい盟友と」
うん、うんと頷いたレイナの頬からはぽろぽろと涙が溢れ、後には一つの言葉も要らなかった。ジルの魂が天に召されるのと時を合わせる様に、広場を照らす松明の明かりが、ぼうっと消えた。
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