5-b


 エリーはくるりと踵を返す。彼女の瞳は僕を見つめているようで、けれど、僕ではないどこか遠くを眺めているような、そんな気がした。


「Shule aroon」

「え? しゅーら……、何?」

「シューラルーン、ですよ。先生」


 僕は首を傾げる。エリーはまた、うふふと笑った。


「わたしのもうひとつのふるさとの言葉です、先生。〝道中ご無事で、良い旅を〟。そういう意味です」


 エリーを照らし出す斜陽が、少しずつ、少しずつ、大きく広がっていく。そのうちに辺りを光に包んで、ともすれば僕だけが屋根の下で、影の中に立っている。

 斜陽のせいだろうか。

 笑んで細められた薔薇色の瞳が、今までよりも色褪せたように見える。

 彼女の綺麗だった白い肌も、まるで遥か昔に死んでしまった、これから腐りゆく死体の肉のようだった。

 そうすると今度は藤色のブラウスの隙間からちらりと覗いた青紫の痣だけが、彼女が生きていることを主張しているように思えて、僕はそっと彼女から目を逸らした。


 瞳の色が変わったか? あるいは、肌の色が?

 それとも変化しているのは、はたして僕の方なのだろうか。


 エリーはまたお辞儀をするなり、踵を返してさっさと歩き出してしまう。駅とは反対の方角へ。

 それきり彼女はもう、こちらを振り向こうとはしなかった。

 僕もまた声をかけて彼女の足を止めようとは考えなかった。


 長い間続いていた、泡沫のようだった僕と彼女の世界が終わるのと同時に、僕の元に帰ってきたのは喧しい蝉の声と、蒸した青草のような香りだけだ。

 淡くも鼻腔をくすぐる胡桃の香りを探すことは、もう僕にはできなかった。

 二度と見えなくなるまで彼女の背中を見送り続けた。どうやら僕の印象よりもずっと小さな背中をしていたのだなと、そんなことをぼんやりと考えていた。


                                      


 了     

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Shule aroon citta×ponta @siroann7

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