第164話 断章/談笑 謎の男と枢機卿
時刻・場所、共に不明。
部屋が存在した。
限られた人間しか
漆黒を基調として控えめな銀の装飾が施されており、家具は一切設置されていない。
ドーム型に造られた天井には、懺悔するぼろ布を着た貧者の頭上に、神父が手を当てているという構図の天井画が
照明は壁に設置された蝋燭の仄かな明かりだけで、室内は目を凝らしてやっと壁と床の境界線が分かる程度に薄暗い。
訪れた者に神秘よりも不気味さを感じさせる、実に奇妙な空間であった。
「『いと聖なる主よ』」
部屋の中心、非ユークリッド幾何学的図形が刻まれた床の上に、ふたつの布袋が並べられていた。袋のふくらみから考えて、内容物はふたつとも人間の子供程度の大きさであろうか。
その手前で一人の壮年の男が、片膝を立てて深い祈りを捧げていた。
「『磔刑は果たされた』」
細やかな文様が織られた法衣に身を包んでいるものの、服の上から分かるほどに腹が出ていた。
聖職者に属するのであろうが、質素な食生活は過ごしていないようである。
ゲシェフト枢機卿。教会における財務の全てを統括する、聖アンスヘルム教皇の心強い味方である。
「『万物流転の庇護をここに、【
詠唱が完了すると、布袋の上方に薄荷色の魔法陣が出現した。
その明るさはまるで昼間の屋外の如く、薄暗かった部屋が隅々まで照らされる。
時を置かずに魔法陣の一部が欠けはじめ、それらはこれまた鮮やかな緑の光となり、布袋へと粉雪のようにやわらかく降り注いだ。
それに呼応するように布袋の中身も輝き始める。
魔法陣が全て消え去り室内が薄暗さを取り戻した後、男は立ち上がり布袋に対して一礼した。
「これにて依頼は完了となります」
独り言ではない。
枢機卿が振り返り、ぎょろりという擬音が似合いそうな動作で目玉を向けると、室内の暗さに紛れていた闇が人の輪郭を成して現れた。
正体を隠しているのか、黒い外套で全身を覆っており、足元は黒い
背丈はゲシェフトより高いが、深くかぶったフードによって顔を拝むことは出来ない。
「この度は回復依頼をご依頼いただきありがとうございます」
枢機卿は胸に手を当てて社交辞令を述べる。
すると、外套の男も腰を折って頭を下げた。
「こちらこそ。改めてお礼を申し上げます。
こちらが諸事情で名前と身分を明かせないにも関わらず、依頼を快く受けていただき深く感謝しております」
フードの奥から、謝礼の言葉が出てくる。声は少年のものであった。
「お礼であれば冒険者ギルドマスターのバット様に。
あの方が身分を保証してくださったので、安心して受けることが出来たのです。
しかし……」
「何かご不満な点でも?」
枢機卿は目を細め顎に手をあてて、何かを思案するような姿勢をとる。口元に笑みを浮かべていることから、悪い事柄ではないことは確かであった。
「やはりこの依頼料は膨大と言わざるを得ません。
本当にたった1回の治療で受け取ってもよろしいのですかな?」
今回の回復依頼は、本来であれば枢機卿の中でも歴の浅い新米が担当する予定であった。
しかし、提示された金額がすさまじく、依頼に換算すれば枢機卿の回復を百回以上受けることが出来るほどのものであった
これほどの額を提示した太客に万が一にでも不備があっては一大事と、教会内における重鎮中の重鎮であるゲシェフトが出向いたのだ。
外套の男は口があるであろう場所に手を当て、誰にも聞かれたくないようにひっそりと喋りだす。
「口止め料も含まれております。依頼が発生したことは口外しても問題ありませんが、依頼者と依頼内容につきましてはどうかご内密に」
「なるほどなるほど……。
ご安心ください。『金で買えぬものは、買い戻せぬのだから、金以上に大切にしろ』。鉄の筆と鉛をもって長く刻み付けるように、私の魂に刻み付けている言葉です。
決して買い戻せぬ信頼を安売りするほど、落ちぶれてはおりません」
得心したように、枢機卿は自慢のカイゼル髭をつまむように撫でた。
外套の男の回答は続く。
「それに『素晴らしい仕事内容には、それ相応の対価が支払われるべき』とも言います。
今の私にとって猊下の奇跡は、この額を積んででも
「なんと
「いえ、仕事仲間の受け売りなのですが……」
「それはそれは、良い隣人をお持ちのようですな、大切になさってください」
枢機卿が懐から取り出した依頼書の完了欄に、外套の男は羽ペンにてサインを綴る。
記載された名は『トール』、無論偽名であった。
「それではこれにて。
私と猊下は今後赤の他人ということでお願いいたします」
「事前に申告されおりましたが……残念でなりません」
ゲシェフトは息を吐きながら頭を左右に振った。
「これほど気前の良い
「聖職者がそのような俗物発言とは……」
「お嫌いですかな? 俗物は」
呆れたような少年の声に、枢機卿は悪びれもせずにむしろニヤリと笑みを浮かべて見せた。
「まさか、少なくとも無欲無償を至上とする清廉な者よりは、親しみが湧いてくるというものです」
外套の男は、口角が上がったような声で問いに答える。
「……やはりあなたとこのまま他人になるには、実に惜しい気がしますな」
良き友となれるかもしれない理解者との別れに、ゲシェフトは心底無念そうに髭を撫でた。
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