第160話 影が揺らめいて
時刻は少し遡り、中村と遠藤がエクムントの寝室で隠し通路を見つけたちょうどその頃。
屋敷よりはるか遠い場所に、地の獄が存在した。
険しい山の一部を切り崩し、多額の金を掛けて造られた重々しい古城。
元老院にその人ありと恐れられたクシュナー元老が、目障りな政敵や失態を犯した部下を始末する大監獄であった。
「ああぁ……」
この世の人々から忘れ去られた者が行き着く、地の果ての牢屋から新たなうめき声がひとつ。
召喚された少年に、いわれのない罪をかぶせたメイド。ティファである。
クシュナーが命じた『処理』は既に執行されていた。
何も盗み見ることが出来ないように眼球を
聞き耳を立てられないように鼓膜が破られ、
脱走を防ぐために手足の健は切られていた。
かつて元老の腹心として仕え、八面六臂の働きを見せた凛々しい面影は、もうどこにも残ってはいない。
「ぐっ……え"っえ"っ!」
舌を切り取られた傷口から垂れた血が、気管支に入って思わず咳き込む。苦しさを紛らわせようと体を横に動かそうとするが、健を切られた四肢がいう事を効かない。
「もったいねぇな、せっかくの美人をよぉ」
彼女をここまで運んだ男が、感傷を含んだ声でぽつりと呟く。
男は数年間ティファの下で働いていた元部下であった。長年仕えていたことで生まれた心の贅肉が、彼女のあんまりな最期の姿を見て外へ漏れ出てしまった。
「無駄口を叩くな」
そんな男を叱咤する声、失脚したティファの立場を引き継いだ女のものである。
こちらは元上司へと近づくと、腹に蹴りを一撃くらわせた。その表情は、うるさい目の上のたんこぶがいなくなって清々としたと言いたそうな、悪い笑みを浮かべている。
「きびきび働け。この廃棄物が裏切ったせいで、やらねばならぬ仕事がいくつも増えたのだぞ」
「はいさ」
新しい女上司の説教を、短いブラウンの髪を掻きながら適当に受け流す。
必要があるのか分からない牢の鍵を掛け、足早に二人は通路を歩いて行った。
足音が遠くに消え去った後であった。
ティファに従っていたはずの彼女の影が、宿主の挙動を無視して不自然に牢の外へと
廊下にまで達した影は、まるで土を積み上げるかのように立体的に盛り上がっていった。
実に
みるみるうちに影の塊は膨れ上がっていき、大きさは子供の身長と同程度にまで達した。
次の瞬間、被っていたヴェールを取り去るが如く、頂上から影が消失していく。中から黒き外套を着た人物が片膝立ちで姿を表し、ゆっくりと立ち上がった。
深くかぶったフードは、存在するはずの顔面を全て覆い隠し、監獄に潜む幽鬼を彷彿とさせる。
黒衣の下から現われた、これまた黒き籠手には
黒衣はティファを一瞥すると、興味を失ったのか廊下に
黒ずんだ硬い
収監されているのはティファだけではない。
老若男女問わず、元老の敵と定められた者たちが
彼らを通り過ぎる度に、フードの奥で
さながら囚人たちを見廻る、極卒のようであった。
そして、世にも恐ろしい巡回は終わりを告げる。一つの牢の前で人型の闇が立ち止まった。
照明を牢内へ向けると、痛ましい人間の業が照らし出される。
よほどこの地獄の持ち主を怒らせたのか、ティファと同じく目口耳を潰され、さらに四肢を切り落とされていた。
切断面には失血死を防ぐために
声帯を割かれた喉から、微かに息の漏れる音が聞こえる。生きたままこの非人道的仕打ちを、その身に受けたのだ。
黒衣は明かりを持たない方の手を、かつて人間だったものへかざした。
すると腕の影が、意思をもった生物のように伸びていく。やがて、牢の主の影と繋がると、火傷だらけの身体が、沈没船のように自らの影へと音も無く沈んでいった。
完全に消えてなくなるまで様子を見届けた影が、外套を翻そうとしたその時であった。
「冗談だろ……」
初めてのフードの奥から、少年の声が聞こえた。
「……何故作った元老院、
何故盗み出したヘルムート特務室長、
何故破棄せず保管したエクムント二等伯爵、
何故そうピンポイントで見つけてしまった
苦々しそうに発したのは、この場に存在しない誰かへの呆れの言葉であった。生物かどうかさえ怪しかった闇が、急速に人間味を帯びていく。
籠手を顎があるであろう位置に添え、思案に耽るような姿勢をとる。やがて、何かを決断したように来た道を戻り始めた。
到着したのはティファの牢。
一度は見切りをつけたはずの彼女へ、先ほどの重傷者と同じように腕を伸ばす。
彼女も影の中へと沈め終わると、この陰鬱な場所で成し遂げたかった事柄が終わったのか、
煙のように消えた後には、残った収監者たちのうめき声だけが聞こえた。
どうやら黒衣の人物は悪人ではないが、聖人と呼べるものでもなかったらしい。
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