第116話 屍喰鬼は吸血姫の夢を見ない Ⅲ

 食欲をそそる香りで、夜神宵奈は目を覚ます。 


(……ここは?)

 自身の体は仰向けに寝かされていた。

 そして、体を上下から柔らかいもので挟まれていることが分かる。肌で触れた感触から毛布と布団に違いないだろう。

 だんだん目が冴えてくると、ぼんやりとした薄明かりに照らされた天井の木目が見えた。 

 首を回して顔を横に向ける。

 どうやらここはどこかの一室らしく、角には化粧机が備え付けられており、奥の壁には黒い扉が存在する。


(……あれを、何してどうすればこんなことになるのかしら?)

 気を失う前の光景を思いだす。

 身の毛もよだつ殺意、

 襲い掛かった即死級の攻撃、

 抵抗もできなかった激流。

 この安心とぬくもりに満ちた空間で枕に顔を埋めると、あの一連の恐怖体験はただの夢だったのではないのかと思えてしまう。


 突如、ドンドンと何かを乱暴にたたく音が聞こえる。

「ナ……二?!」

 夜神は声を出して、言葉を紡いていたことに気が付く。喉を震わせた感覚から、ゆっくりであれば喋ることが可能であると直感した。

 転生前、ネモが宣言していた『少なくとも知的生命体との意思疎通は可能』という謳い文句は嘘ではなかったのである。


 約束を守ってくれたことに対する嬉しさを一旦しまい込んで、夜神は扉に恐る恐る近づいて耳を澄ます。

 すると、扉のさらに向こう側から話声が聞こえてきた。

「怠惰の魔女よ、この辺りに小娘のグールが流れ着いていないかしら?」

 片方の声を聴いた瞬間、夜神の身体は震えあがる。

 忘れるはずもない、それは彼女を先ほど殺そうとした吸血鬼サルチナのものであった。しかも、彼女が探している対象は間違いなく自分。口に手を当て、声を出来るだけ殺すよう努める。


「いいえ、サルチナ様。最近は誰も見かけておりません」

 もう片方は女性のようで、耳触りの良い声色だった。


(かばってくれた?)

 どうして? 何で? 思わず考え込んでしまったが、夜神は大きく頷いてそれらをすべて消した。

 あの人は私を守ってくれた、その事実で十分なのだ、と。


「そう……ならいいわ。言っておくけれど、私に隠し事が出来ると思わないことね」

「はい、重々承知しております」

 何かが羽ばたいた音の後、扉――おそらく玄関がバタンと締まり、足音がこちら側に近づいてきた。


(……よし!)

 夜神は飛び切りの挨拶をすることに決めた。

 会話を聴く限り、この家の主は自分をあの吸血鬼からかばってくれた命の恩人である。会ったしても危害を加えられる可能性はとても低い。

 であれば、最大の経緯を払った振る舞いで対応することが、助けてもらった側の礼儀だと夜神は考えた。


 しかし、夜神の頭に疑問が浮かんだ。

(この世界の挨拶ってどんなものが一般的なのかしら? 元の世界とは大幅に違っていたらどうしましょう)

 あたふたと慌てている夜神をあざ笑うかのように、扉のドアノブがガチャリと回る。


(ええい、ままよ!)

 夜神は背筋を伸ばし、開く扉に全神経を集中させた。これから出会う人物の特徴であいさつの種類を判断するためである。




 果たして、部屋に入ってきたのは初老の女性であった。

 黒いローブに袖を通し、首元に銀色のネックレスをしている。ウェーブのかかった水色の髪は、地球ではお目にかかったことはないが、不自然さを感じることなく似合っていた。

 肝心の顔立ちは、すっきりとした目元と高い鼻から、ヨーロッパの人という印象を受けた。


(なら挨拶はカーテシーしかない! お願い、合ってて!)

 両手でスカートの端をつまみ、軽くスカートを持ち上げる。そして左足を浅く後ろに引き、右足を軽く曲げて、背筋を伸ばしたまま頭を下げた。


「ハ……ジメ……マシ……テ、アリガ……トゥ……ゴザイ……マス」

「まぁまぁ!」

 途切れ途切れではあったものの、精いっぱいの感謝の言葉を伝えると、目の前の女性は手を合わせて、満面の笑みを浮かべた。


「私はマーガレット、こちらこそ初めまして。とても素敵な挨拶をありがとう」

 無事相手が喜んでくれたことに、夜神は内心安堵の息を吐く。


 次に夜神は、扉が開いたその先、先ほどサルチナと話し合っていたであろう場所を指さし、謝罪の言葉を紡ぐ。

「ゴ……メンナ……サイ」

 自身のせいで彼女の身に危険にが及んだこと、それが申し訳なく感じたからである。


 マーガレットは夜神の頭に手を置き、優しく撫でた。

「気にしないで、私が助けたかっただけだから。あなたのような小さな女の子はもっと大人を頼るべきよ。それよりもお腹、すいていないかしら?」

「オ……ナカ?」

 意識すると途端に空腹が訴えかけてきた。

「ご飯にしましょう。ヴェヒター、ヴェヒター!」

 マーガレットが名を呼ぶと、部屋にもう一人入ってくる。


 その姿を見た瞬間、夜神宵奈の全身が痺れた。

「スゴイ! カ……カッコ……イイ」

 ヴェヒターと呼ばれた者の身体は、全身が黒く塗られた厳ついマリオネットだった。円柱状の胴体に太い手足が付いており、頭部には顔の代わりに『EMETH』という文字が彫られていた。

 そして、体中に電気回路のように白線が走っており、それらに魔力が込められているのか淡く輝いている。

 その特徴のすべてが、夜神の中二病に深く突き刺さった。


 思わずパタパタと駆け寄って、ペタペタと触りだす。

 ヴェヒターは持っているおかゆがこぼれないように、そして夜神を傷つけないように、腕を上げて慌てふためいていた。


「あらあら、気に入られてよかったわね。あなた」

 マーガレットは夜神の奇行を止めようとはせず、むしろ嬉しそうに一人と一体のやり取りを眺めていた。

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