第115話 屍喰鬼は吸血姫の夢を見ない Ⅱ
いつかの時代、大森林の中にそれは見事な峡谷があった。
その片側の崖の上、夜空に輝く五つの月を背に一人の女が
右目は真紅の髪で隠れており、肌色は不気味なほど青白かった。
視線を落とすと、絶壁に挟まれた川が見える。
先日通り過ぎた大嵐の影響で、ただでさえ激しい流れはさらにうねりを増していた。女はその激流を左目で睨みつける。
「侮辱ここに極まれり……ね。下等種ならまだしも、これに私が恐れおののくとでも思っているのかしら?」
後ろを振り返ると、おびただしい数の墓石群が、川を沿うようにして一列に並んでいる。
女はそれらを蔑視していたが、何を思ったのか右手の人差し指で下唇を撫で、笑みを浮かべる。
「まぁいいわ、全てを
わずかな希望に縋る人々を、弄べる立場だと思えばいい気分じゃない」
おもむろに女は懐からナイフを取り出し、細い手首に刃を滑らせる。そして、鮮血が噴き出した右腕を、一番
滴る体液が石の表面を伝わり、土へしみこんでいく様子を認めると、彼女は一歩進んで次の墓石の上に腕を差し出した。
血を注ぐ、歩くという工程を最後尾の真新しい墓石にまで行った
「
◆◆◆
<転生者の転生完了を確認しました。>
<称号 転生者を取得しました。>
<
<転生者に
<
<転生者の身体能力をステータスとして数値化します。>
◆◆◆
夜神宵奈が意識を取り戻し、瞼を開けると目の前に闇が広がっていた。
(ここはどこかしら……痛っ!?)
とりあえず伸びでもしようかと腕を頭上に挙げると、拳が壁に激突する。
慌てて両手両足をパタパタと動かし情報を集めると、どうやら人ひとりが収まる程度の、狭い部屋の中で横になっていることが分かった。
(出口が見当たらない! 閉じ込められているということ!?)
通常人間がこのような閉鎖空間に閉じ込められた場合、極度のストレスを感じ、パニックになるという。
しかし、夜神は……
(つまり私は生まれながらにして、封印せざるを得ないほどの禍々しい存在だということね! いいじゃない!)
自らに与えられている設定を想像し、素直に喜んだ。
事前にネモより情報が与えられていることもあってか、寄せる期待もひとしおである。
(ならなおさら、こんな場所から脱出しないと)
脱出へのやる気に拍車がかかった。もちろん動力源は危機感などではなく、己が望んだ姿を今すぐにでも確認したいという欲望である。
そして、天井が力をこめるとわずかに動くことに気が付く。
すぐさま両手両足を天井につけ、あらん限りの力で前に押しだした。
すると天井が傾き、板の向こう側にゴロリと石の転がる音が聞こえる。
直後、月光が辺りに差し込み、新鮮な冷たい空気と落ちてきた土塊が肌に触れた。
「っ!」
上体を起こした夜神は、目の前に一人の女性が立っていることに気が付き、そのままの体勢で硬直した。
日本ではまず見かけない見事な紅い髪、不自然なほどの白い肌、目も覚めるような端正な顔立ち、そして極めつけは背中に生えた蝙蝠のような一対の翼。どれもが夜神の
中二の権化と認定された女は、夜神を一瞥して落胆したようにため息を吐いた。
「何この小娘、この中じゃ論外の部類ね」
明らかに夜神を侮辱する言葉であった。しかし、彼女の頭脳は真っ先に『この中』という言葉に疑問を抱いた。
慌てて周囲に目を配る。
そして、後ろを振り向いて目を疑った。
名前と数字が刻まれた無数の石の下から、土気色の肌を持つ腕が伸びているのだ。
出てきた顔には全く生気を感じられない、焦点の定まらない虚ろな瞳が、脳裏に『グール』という言葉を浮かび上がらせる。
夜神は察する、ここは墓場なのだと。
衝動的に自分の両手を凝視した。
彼らと同じ皮膚、皮と骨だけの輪郭、
「ウ"ッ」
喉を震わせて出てくるのはカエルのようなガラガラ声、
つまりは……
(私の種族はグール! 素晴らしいわ!
闇に身を隠す夜の住人、まさに望んだとおりの種族じゃない!
ありがとう、ネモさん!)
夜神はあまりの感動に身を震わせた。
誰もいなければ飛び跳ねて喜びを叫んでいたことだろう。親から厳しく礼儀を教えられた夜神は、他人の手前溢れ出す歓喜の衝動を押し殺す。――その行動が、結果として夜神自身を救った。
「静まりなさい! あの程度の水流に震えるなど、この吸血鬼サルチナが許さないわ」
サルチナと名乗る女の喝に、夜神は我に返った。
無数のうめき声が背後から聞こえる。再度振り向くと、夜神の後ろのグール達が、崖下の川を恐れ、じりじりと崖から離れていた。
「思考も夢も規律もない、今のあなた達は実に無様よ。
けれど光栄に思いなさい、今日よりお前たちの主はこの私になるのよ。
その安い命、存分に使いつぶしてあげるわ」
サルチナは髪をかきあげ、今まで隠していた右目を露にする。
すると今まで混沌としていた彼らの動きが停止し、一斉に直立不動の姿勢をとった。
慌てて夜神も同じ姿勢をとる。一人だけの別の行動をとることは、この暴君の前では悪手に考えられるからである。
しかし、主体的な行動と受動的な行動はどうしてもわずかにずれてしまう。
「……あなた、私の【
他と比べればわずかな差を、怪物の眼は見抜いてしまった。
サルチナは夜神を凝視した後、その端正な眉を思い切り吊り上がらせた。
「……【完全耐性】! 何よそのスキル!? 私でさえ持っていない!!」
平静を崩した彼女の瞳には怒気が込められていた。圧倒的な殺意が小さな体に思う存分叩きつけられる。
今の私では逆立ちしても勝てない。
ニゲロ、コロサレル。
夜神は本能で理解した。
(動け! 動け! 動けこの馬鹿足!)
震えが止まらなった足を殴りつけ、何とか使い物になるようにする。
力いっぱい踏みしめて、体を吸血鬼とは反対方向へばね仕掛けの如くはじき出す。
「待て!」
振り向くと彼女はナイフを片腕に突き刺していた。
溢れた血が空中に留まり次第に大きな鎌へと変貌していく、その凶悪な武器を標的へと振りかぶった。
「くたばれ、異分子!」
両者の実力差を考えれば、必中の一撃になるはずであった。
だが、事前に大量の血液を失ったことが、がくりとサルチナの足元を狂わせる。
結果として鎌は本来とは別の軌道を描き、夜神の足元に着弾した。
それでも強者の一撃である。
「ア"!」
爆音とともに足場の崖が大きく崩れ、数体のグールとともに川へ落ちてゆく。
(きゃあああああああああああああああ!)
「ヴアアアアアアアアアアアアアアアア!」
本来絹を裂くような悲鳴は、下品な慟哭となって夜空へ木霊する。
次の瞬間、砕けた岩の破片が側頭部に直撃し、夜神の意識は混濁した。
「逃がすか!」
体勢を立て直したサルチナが翼を広げ、新しく作った鎌を手に追撃する。
しかし、刃先が獲物にたどり着くより先に、夜神の身体が濁流に着水した。
派手な水しぶきがサルチナの頬に掛かる。
「ぐああああああああああ!?」
陶磁器のような肌に、明らかに重い火傷の跡が付く。その苦痛はすさまじく、もはやグール一人に構っている場合ではなかった。
波が夜神の体を押し流し、両者の距離をあっという間に離していく。
遠くからサルチナの声が聞こえた。
「せいぜい苦しめ……ぁぁあああ! 流水に体を焼かれて溺死すればいい! ぅうう……」
痛みに悶絶する合間に、夜神への罵声が挟まれる。
夜神はもはや豆粒ほどになったサルチナの顔を見て、ぼんやりとした頭で思う。
(ああ、せっかくのカッコいい顔がもったいない。でも、あえて完璧な存在に一点の傷があるという設定も、それはそれでカッコいいかもしれない……)
意識はそこでぷつりと途切れてしまった。
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