第3話 ―了―

 マスターはいきなり泣き出した私にも別段驚く様子もなく、落ち着いていた。その証拠に泣きだしてすぐ、そっと添えてくれたおしぼりが嬉しかった。


 そして、私の泣き声だけが店内に響いていた。


 マスターはおしぼりを添えた後はじっと、私が泣き止むのを待っていてくれた。


「ごめんなさい。急に泣いたりして」

私は自分でも驚くほど泣いてしまった自分が急に恥ずかしくなり、赤くなりながら小さな声で謝った。


「いえいえ、お気になさらず」

マスターは温かな微笑みを一切絶やさず、私の涙を受け止めてくれた。


 こんなにも温かな人をたったの一言で疑ってしまった自分が恥ずかしい。


 マスターは何事もなかったかのようにカップの底を眺め、

「うむ」

と言った。


 彼の手の、いや、頭の中で何かが行われている。けど、その何かは私にはわからない。わからないから、ドキドキする。


「お嬢さんはこんな話を知っていますか?」


 そんな前置きから始まったマスターの語りはある一つの物語だった。遠い異国の遠い時を超えた冴えない男の悲哀の籠った恋物語だった。


 もちろん私は博識ではないので、そんな物語は知らなかったし、その物語が有名なものなのかさえわからない。が、どこか引き込まれる物語で思いっきりその男に感情移入してしまい、さっきとは別の涙が一粒零れた。

 マスターの語りがウマすぎるのがいけないのだ、きっと。


 そんなことはどうでも良くて、なぜ、マスターはその物語を私に聞かせたのだろう。私を泣かせたかったため、ということはない。はずだ。やっぱりマスターの真意がどこにあるのか、私にはわからない。


「彼は死の間際言ったそうです。『私は幸せな人生を送れた。心残りはなにもない』と。そしてその死に顔はとても穏やかな笑顔だったそうです」

「え?」


 悲哀の恋と穏やかな死。


 全然ツナガラナイ。


「クスッ」

マスターがいたずらっぽく、笑った。


―そんな仕草もチャーミングだなぁ。くそぅ。


私はふいにそんな感想を抱く。じゃ、なくて、

「なんで、笑ったんですか?」

バカな私はバカ正直に答えを求めた。


「いえ、すみません。お嬢さんは表情が豊かですね。それだけ感受性が豊かなんでしょうね」

「え?そうですか?えへへ」


―なんか褒められた。嬉しい。


「ええ。この澱もそう言ってますよ」

「お、り?」


「ええ。澱です。身も蓋もない言い方をすればカップに残ったですね」

「カ、ス…」

「ええ。カスです。けれどこれらはとても雄弁なんですよ。飲んだ方の心を映すのです」


 マスター2度目のウィンクである。彼には訳のワカラナイ話しをする度にウィンクする癖があるらしい。


「私もね、こんなものから人の心を読み解けたときは驚きました。でもね、お嬢さん、大概の方は『合っている』と、仰います。不思議でしょう?」

 

 返す言葉も見つからず、私は、ただ、コクリと肯いた。


「あなたはとても辛い体験をされました。そして、現在は出口のないトンネルの中にいるよな心地でしょう。けれど、大丈夫。きっと大丈夫です」

マスターはそこで少し言葉を切った。


「では、出口のないトンネルを自らが掘り進んだらどうなりますか?」


 私は心に浮かんだままを素直に答える。

「途中で、崩れます。それか心が折れますね」


 まあ、この答えは穿ち過ぎかもしれない。


 マスターがフッと笑った気がした。


「かも、しれませんね。けれど地上、陽の当る場所へ、出ることが出来るかもしれない。これはあくまで可能性の話しです。道は決して一つではありません。また、自らが切り拓くことも出来るのです」


 可能性。

 私がこれまで目を逸らし続けてきたもの。


「あなたは、何かを探しています。それが何かまではわかりませんが、探し物はきっと見つかります。ご安心ください」


 風が吹いた。心に触れたそれは、温かで優しく、あんなことで冷えきっていた心を撫でて行った。


 ふと、窓の外を見やれば、猫がとことこと歩いている。その白が陽光を反射してキラキラと輝いている。おデブな、頑固者のお婆さんの様なその顔は、紛れもなくルカだ。


 私は反射的に立ち上がり、挨拶も忘れ店の重厚なドアを開け、外に飛び出した。


「ルカ!」


 ルカが振り向き一声鳴いた。


んにゃう

「たまには外も出てみるのも良いものね」


 ルカのそんな声が聞こえた気がした。

「ルカ?」


「はいな」


 なぜだろう? 猫との会話が成立している。私、いよいよ末期なのかな…

「そんな風に思わなくても良いじゃない。」


「あ、はい。ごめんなさい」


「謝る必要もないけれど」


 しっかりと会話が成立している。ばかりか、心まで読まれている。



 まぁいいか。


 なんかあのマスターの話の全てが不思議過ぎて感覚が麻痺でもしたのだろうか。


 猫と話す機会なんて多分これ以降訪れない。だったら、それを楽しんでみよう。なぜか素直にそう思えた。


「ねぇ、ルカ?」

「はいな」


「さっきあなたを探している途中でね、不思議な喫茶店で不思議な話を聴いたんだ」


 私はマスターに聴いたあの物語をルカに話す。


 てくてくと歩きながら一生懸命。


 ルカはしっかりと聴いてくれた。

「あれまぁ」とか、「ほうほう」といった相槌付きで。


「でね、その男の人、最期は笑顔で逝ったんだって。私は幸せでした~って。後悔なんてありませんって」

 私は未だに腑に落ちないその結末で物語を結んだ。


 ルカからは返事がなかった。そのままてくてくとしばらく歩く。


「若い内はいろいろな体験をしておくものよ」


 唐突に放ったルカの一言が私の胸に突き刺さった。思いの外グッサリと深く突き刺さる。


 も必要なことだった?


「必要性なんて一切ないさ。だけど、を知っているからあなたはもっとずっと優しく生きられる」


 -そういうこった。


 突然の風にルカの声が掻き消される。


 気付けば自宅の前だった。

 ルカのドヤ顔が憎らしくも頼もしく、私は自然と「ただいま」と言えた。


 ルカ諸とも母にきつく抱き締められたのは言うまでもない。


-了ー

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凍えた心が溶けるまで サトノハズキ @satonoha

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