第2話
「え?」
私は驚くことしか出来ず、呆然とそのコーヒーを眺めた。
「どうぞ一杯」
マスターの渋い声が、一拍遅れて降ってきた。
「え?」
だって、お金無いって謝ったのに…
私が訳もわからないまま呆然としていると、
「お金を持っていらっしゃらないことは承知しました。ですからこれはサービスです。もし、よろしければ感想などいただければと思います」
マスターの優しい声が私をふわりと包んでくれた。
カウンターに置かれた真っ白なカップは透明な黒い液体で満たされて、そこだけ空間を切り取った様な不思議な感じがした。
私は恐る恐るカップを持った。薄く立ち込める湯気を「ふーふー」と散らしてスッと一口飲み込んだ。
まず最初に何とも言えない香りが鼻をくすぐった。次いで甘みが広がって、最後に酸味と苦味が舌の上で踊って行った。
それまで、インスタントに砂糖を少し、ミルクを増し増しに入れたものや、缶のカフェラテといった画一的な味のコーヒーしか飲んだことのなかった私には、その黒い透明な液体が、まるで別次元の飲み物に感じた。
熱すぎず、
最初のひと口では気付かなかったけど、その絶妙な温度が、このコーヒーの飲みやすさに一役買っているようだ。
もっとずっと味わっていたいのに、飲み干してしまうのが勿体なくて、その後もゆっくりとカップを口に運んだ。
―はぁ~
名残惜しくも飲み干してしまったので、私は両手にカップをギュッと握ったまま思わずため息をついた。
前述のとおり、これまで一度もブラックというものを飲んだことはなかった私が、こんなにブラックコーヒーの味に感動出来るなんて思わなかった。それはまるで、マスターが振るう一種の魔法のようで、カップの底に残った、何と言おうか…“コーヒーの余韻”を見つめ続けた。
どの位そうしていただろう。
「どうでしたか?」
マスターの声が降ってきた。
「スゴカッたです…」
私はまだカップの底を見つめたまま、答えになっていない答えを返す。
「それは、良かった」
マスターが微笑んでくれたのが気配で分かった。
私はそっと余韻から目を離し、マスターの方をチラ見した。やっぱりマスターは微笑んでいて、目尻に寄ったくっきりとした皺が彼の年輪のようで、どっしりと全てを受け止めてくれるような安心感が滲み出ていた。
間違ってもマスターは太っていない。どちらかと言えば骨に皮がそのまま覆っていて、悪く言えば枯れ木のようだ。しかし、その幹は私ごときが寄りかかっても、決して折れないだろうとも思わせる不思議な雰囲気も漂わせている。
だからだろうか、
「あの、どうすれば、こんなに素晴らしいコーヒーを淹れれるようになれますか?」
突拍子もなく、何の脈略もない質問が私の口を
「ふむ」
マスターはあごに手をやり考える仕草をする。
―やっぱり…
マスターはそんな変な質問をも受け止めてくれようとしている。私の予感が確信に変わる。ちょっとした沈黙の時が二人の間を風が踊るように軽やかに吹き抜けていく。
「魔法です」
「え?」
「実は私、魔法使いなんです」
―え?何?この人大丈夫?
私の確信を返して欲しい。それも今すぐに返して欲しい。なんでウィンクしてるの? そんな茶目っ気いらないよ! 確かに魔法みたいだなんて思っちゃったけれども!
私は心の中でツッコミを入れつつ、肩すかしを食らったような脱力感を覚えた。もっと端的に言えば、
―はぐらかされた。
そう思った。
私の耳には魔法イコール秘密に聞こえた。そして、マスターから視線を外した。
だけどよくよく考えれば、いきなりやって来たこんな小娘に、しかもサービスで淹れてくれたコーヒーの秘密なんてどんなに良い人だって教えてくれるわけがない。
私は、『マスターを悪く思う自分』を追い払おうと、必死に無理やり納得できる理由を探した。
「信じられませんか?」
いやいやマスター、追い打ちをかけないで。私が必死に探し当てた理由という名のピースが崩れ去ってしまうから。
「では、」
そう言って、マスターが手を差し伸べた。
ーん?
私が不思議に思ってその手を見つめていると、
「カップを私に渡して下さい」
カップの催促だった。
暗に帰れと。そうですよね。そりゃあそうですよ。信じられない人に用なんてないですもんね。何だか、自分でも不思議なくらい卑屈になってしまう。他人の拒絶にこんなにも敏感に反応してしまうのがとても嫌だ。
「あ、はい。ごちそうさまでした」
私は必死に震える手をごまかそうと両手でギュッと握ったままだったカップを顔は上げずにマスターに渡して席を立って、そうしてそのままお店を出よう。そう思った。
「お嬢さん、お時間は?」
カップを渡した瞬間のマスターの質問の意味が掴みかねて浮かしかけた腰がすとんと落ちた。
「まだ、お有りのようでしたら今しばらく、この老いぼれの魔法に付き合っていく気はありませんか?」
―あぁ。この人は悪意を持っていない。
真正面から見上げたマスターの笑顔は、とてもとても柔らかかった。そして、ちょっぴり可愛らしい。マスターの善意が、素直にすとんと腑に落ちた。
私はどこかに他人との距離感を置いてきてしまったようだ。
多分、家族からも逃げてしまった、その瞬間に。
そんな事を思ったら急に視界がぼやけてきた。
泣いたら負けだと思ってた。泣いちゃいけない。だって私は悪くない。だから間違っても泣くもんか! あの日そう決めた。決めたのに。
だけど、マスターは、その笑顔は、私の築き上げたちっぽけな防波堤をコーヒーを通して簡単に越え、私の心をざわめかす。しかも、茶目っ気たっぷりに。
うん。敵わない。
彼が刻んだ年輪には。彼が漂わせるその雰囲気には。彼が使う魔法には。
もともとちっぽけだった防波堤はそもそも限界に来ていたのだろう。
私は久し振りに、泣いた。
こみあげてくる物を堪えず逆らわず、ただ、泣いた。
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