凍えた心が溶けるまで

サトノハズキ

老猫の冒険

第1話

 ここしばらく、外に出るのが怖かった。


 きっかけは些細な事だった。


 その日は何故かどうしても眠くて、とても、とても眠かったので、友達とのLINE中に既読のまま寝落ちした。返信が必要な内容でもなかった(ホントにどーでもヨイ内容だった)けれど、次の日朝一番にその子に

"寝落ちしちゃったゴメン"

ってLINEしたけど、未読のままスルーされた。

 おかしいなって思いつつも学校に行って、その子に話しかけたら、普通に無視された。そればかりか、その子の周りに他の子たちが集まって私のコトをチラチラ見ながらヒソヒソ話していた内容が、

「既読無視とかナイよね」とか、

「あたしは冷たいヤツだと思ってた」といった、

私に聞こえるくらいの絶妙な音量の私をディスる内緒話だった。

 それからあっという間に学校で居場所を失った私(まさかトイレでお弁当食べるとは思わなかった)は、自室に引き籠ったのだった。

 最初は戸惑っていた家族も日増しに過干渉になっていき、そんな家族の心配する声が余計にプレッシャーに感じられて、こんな場所には居たくないのに、それでも自室にこもる事しか出来なかった。

 家族のプレッシャーにも耐えられないのに、外に出て他人の視線にがない。そんな風に思い込んで、それでも自分は一人ではないとどこかで思っていたかったから、PCにかじりついて、有象無象な方々と繋がる事で無為な時間を浪費していた。

 そんな中、飼っている猫、ルカが外へ飛び出してしまったらしい。

 飼い始めて15年間、一度も外へ出た事が無く、家の外への興味も失ってしまったように見えたルカが、何かの拍子に外へ出てしまったのだと、普段おっとりしている母が慌てて、けたたましいくらいに私の部屋のドアを叩いた。


「ねぇ!晴香はるか開けて!ルカが!ルカがどっか行っちゃった!!」


 それほどまでに慌てる事か?と、冷めてしまった私はそれでも無視したかったのだけれど、もう一方では、ルカのことが心配だった。

 そりゃあ、私が物心つく前から15年もひとつ屋根の下で暮らした家族の一員がいなくなったのだ、心配するなって方が無茶かもしれない。

 それに、猫って自分の死期を悟らせないように、その時が来ると出て行ってしまうって話を聞いたことがある。ルカに限ってそんなことはないと思いたいけど、ここ数日トイレとお風呂以外で部屋を出なかった私が見たルカは、窓辺で日向ぼっこしながら丸まって寝ている姿が多かった。


―もしかして・・・


 一度ひとたび悪い想像をしてしまったが最後、加速度的にその想像に囚われてしまった。

 一人ひっそりと死ぬルカ。

 サヨナラも言えず、逝ってしまうルカ。


―そんなのイヤだ!!


 私は久し振りに玄関を開け外に出た。

 久し振りの外はとても眩しくて、容赦なく光が突き刺さってきたけど、そんな事にはお構いなく、私は当てもなくルカを探しに駆け出した。

 夏真っ盛りの外気温が容赦なく私の気持ちを削いでいく。家から出て幾らもしない内にあごは突き出て舌で息をする羽目になった。ルカも相当なお婆ちゃん猫だ。この暑さの中それほど遠くへは行けないのでは?私はそんな理由を引っ張り出して走るのを止めた。

 ハァハァハァ。膝に両手を付き肩で息をする。

 額から流れる滝の様な汗がアスファルトを黒く塗らす。ちらりと横目に見れば、一軒の喫茶店があった。その板チョコの様な扉の先がエアコンの効いた天国に見えた。

 私は後先考えず、その扉を開けてしまった。開けてしばらくするまでお金なんて持ってないことに気付かなかった。


カラン、コロン。


 扉に備え付けられた鐘が軽やかに鳴った。

 焙煎されたコーヒー豆の匂いに包まれたその店内のカウンターでは、白い口髭の似合うマスターがカップを布巾で拭いていた。

「いらっしゃいませ」

マスターの深みのある声が耳に心地良く、そして何より快適な温度に保たれた室内は私の想像通り、天国で間違いなかった。

 私はフラフラとカウンターの一つに座る。服の裾をバタバタと仰ぎ涼を得ていると、氷でキンキンに冷やされた水と、おしぼりが二つ、そっと目の前に置かれた。

 私はちょこんと頭を下げて、コップの水を口の端からこぼれるのも構わずに一気に飲み、二つあるおしぼりの一つを使って恥も外聞もなく体中の汗を拭った。さっぱりした私は人心地ついて


「あ゛ぁ゛~」


 天井に向かって、おっさんの様な声を出してしまった。

 

「さて、お嬢さん。注文は?」


 マスターはきっと良い人だ。まず、声がとても渋い。その声を聞くだけで何故か安心感を得られる。更にはキレイに切り揃えられた口髭。白銀のような輝きで清潔感が漂っている。

 そして何より年齢はおろか性別の壁さえ越えてしまった私の行動を見て見ぬ振りをしてくれた。

 っと、注文だ。喫茶店に入ったからには注文するのが当たり前。


 が、しかし、バカな私はこの時になって初めて小銭すら持っていないことに気付いたのだった。


「えっと…その…はい…」


 今度はさっきまでとは違う汗が全身に流れる。じっとりとしたイヤな汗だ。

 しどろもどろになってしまった私を、マスターはじっと見ている。


-顎を引いて、本の少し上目遣いなのが意外と可愛い。


 現実逃避気味に他愛もないことを思ったが、幾ら逃避しようとお金を持っていないことには変わりがない。私が言葉を失えば、待っているのは沈黙だけだった。



 でも、待てよ。まだ注文は成立していないはずだ。ならばまだ、無銭飲食にはならないのでは?

 私は勢い良く椅子から立ち上がると、その勢いのままに頭を膝に付くぐらい深々と下げて謝った。

「ごめんなさい!店内があまりにも気持ち良さそうだったから勢いで入ってきてしまいました!私、お金、持ってません!」


 バカな私にできることと言えば、バカ正直に謝ることだけだった。


 どれほどそうしていたかわからない。ただただ頭を下げ続けた時間は1分にも30分にも感じられた。


ことり。


 やがてカウンターに、何故か一杯のコーヒーが置かれた。

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