オロチノ 血の宿命の子供たち

靄生 慧

第1話


闇は、漆黒ではない。



木々の緑が日ごとに濃く深くなる五月雨の季節。

分厚い雲が空を覆い尽くし、永遠に止むことがないようにさえ思える雨が

降り続く闇夜の中でも、月の光が完全に遮られることはない。

空から落ちてくる透明な雨粒はわずかな輝きを宿し、木の葉に留まって

大きな雫を形成すると、まるで自ら発光する蛍のように、

大きな木々が生い茂る暗い森にほのかな明かりを灯していく。


樹齢数千年は超えているであろう、そうした木々に守られた森の中に、

屋根も床もすべてが真っ黒な木材で設えられた東屋がひっそりと立っている。

そこに、これもまた頭から足先まで真っ黒なガウンを身につけた女性が4人、

列をなして入っていった。足音はおろか、息遣いさえ聞こえぬほど静かに、

無言のまま板の間へと上がっていく。

水を含んで重たくなったガウンの裾だけが、かすかに衣擦れの音を立てたが、

そのごくわずかな人の気配も次の瞬間には森の音に隠された。


それから、数時間が経った。


はじめは高く、それから急にデクレッシェンドで消えていくように、

赤ん坊の泣き声が深い夜の闇に吸い込まれた。

「女の子ですよ。」

苦しげに浅い呼吸を続ける“母帝”の耳元で、母帝とうりふたつの顔をした

ファニベルが安心させるようにそっとささやいた。

母帝はわずかに首を持ち上げるようなしぐさでその言葉に応えたが、

まだ全身に力を入れたまま、苦痛に顔をゆがめている。

「さあ、もうひとがんばり。もう一度、いきんで。いちにの、さん!」

横たわった母帝の脚側にいる、黒いガウンを纏った年配の女性が声を

かけ続けている。

「もう一度。いち、にの、さん!」

かけ声が数度繰り返された後、先ほどよりもひと際大きな産声が響き、

その泣き声もまた、すぐさま闇に隠された。

母帝は全身の力をすべて使い切ったかのようにぐったりと目を閉じて、

大きくひとつ深呼吸をした。

皆よく似た顔立ちの女性ばかりが四人、ベッドを取り囲んでいる。

母帝が王家の後を継ぐ双子の出産という大事業を成し遂げたその薄暗い部屋の

中には、歓喜の声も笑顔もない。その場の空気は凍りつき、時折大きく肩で息をする母帝の息遣いのほかは、すべてが固まって時間さえも止まっているようだ。長い沈黙を破って言葉を発したのは母帝その人であった。

「男の子、なのね……。一度だけ、抱かせてもらうことはできないの?」

双子の妹ファニベルを除いた三人が、悲しそうな顔で首を横に振る。

ファニベルは母帝が無理に体を起こそうとするのを押しとどめ、その体に

覆いかぶさるようにして姉の顔に頬を寄せた。

「大丈夫、わたくしに任せて・・・。」

ファニベルは姉の耳元で小さく小さく囁いて、覆いかぶさった姿勢のまま、

母帝の手をぎゅっと握った。



『オロチの血の誓約に従って』

皆が声を揃え、低く押し殺した声で唱える。

「伯母さまがた、では後はわたくしが。」

ファニベルは毅然とした態度でそう言うと、黒い布に包まれた赤ん坊を

抱きかかえた。

『オロチの血の誓約に従って』

ファニベルはもう一度そう唱えると、三人の伯母たちの顔を決意に満ちた

強い視線で見回した。

「前帝の時にこのようなことはなかった。私たちもこんなことは初めてなのです。

 けれど、この国の平穏のために、民を守り治めるために、誓約は絶対に守られ

 なければなりません。ファニベル、本当にあなたひとりで大丈夫ですか?」

「ご心配なく。私たちに課せられた使命と宿命はじゅうぶん理解しています。

 心を鬼にしてでも、どんな罪と罰を背負うことになろうとも、なすべきことを

 執り行う覚悟はできています。お姉さまが身ごもった時から、もしもの場合は

 私がその役目を引き受けると決めていたのですから。」

三人の伯母たちの目には、今なお、困惑と悲しみと、そして恐怖のようなものが浮かんでいたが、ファニベルのしっかりとした物言いを聞くと、顔を見合わせながら、一様に頷いた。


ファニベルは、暗闇の中をできるだけ足音を立てないようにしながら、注意深くゆっくりと歩き続けた。片方の手で据わらぬ首をしっかり支え、赤ん坊の小さな身体が揺れないように大切に抱きかかえて、ともすれば駆け出しそうになる気持ちを抑えながら、息を殺して歩みを進めていく。


この道は、木々の葉に灯る雨粒のかすかな光さえ届かないほど暗く、

あらゆるものの侵入を阻むかのように細く険しい。

けれど、右も左もわからないほど深く閉ざされた森の中でも、

彼女には目指すべき場所がわかっている。

この半年ほどの間、何度も何度も通いつめた道だ。

そもそも、この道は王家の娘たちしか知らない。

城の裏手にそびえる険しい山に続く道。その山の向こうには禁裏の森が

広がっている。

山のふもとからその先は、王家の娘たち以外、決して立ち入ることが

許されない聖域だ。


ファニベルが伯母たちに語った言葉に嘘はない。

だが、その言葉の本当の意味を、伯母たちは想像だにしなかったに違いない。

とにかく今は、禁裏の森の約束の場所まで一刻も早くたどり着かなければ

ならない。


禁裏の森。人々は、昔からその聖域を「オロチの地」と呼び習わしている。

文字通り、そこには今もオロチという生き物が棲むと信じられているのだ。

人間とオロチとが、互いに殺し合うことなく、それぞれが安心して

平穏に暮らすための境界線。

この国のヒト族とオロチ族は、互いに決して接点を持たないことで

ともに生き永らえる道を選んだ。

ヒト族とオロチ族をつなぐ唯一の仲介者が“母帝”であり、

すなわちそれは王家そのものを意味する。



未だ降り止まぬ雨空が、それでも間もなく朝日が昇ることを教えるように

黒から紫紺へと色を変え始めた頃、ファニベルはようやく約束の場所に辿り

着いた。太古の木々に覆われた隠れ家のような小さな窪地に、

かろうじて輪郭だけがわかる薄闇色の大きなシルエットが浮かびあがる。

ファニベルは躊躇うことなくその影の主に駆け寄ると、両腕でしっかりと

抱きかかえていた赤ん坊を無言のままそっと差し出した。

暗がりの中に、大きな人の腕らしきものがぬっと現れ、

黒い布で覆われたままの小さな小さな赤ん坊を両手ですくい上げるように

優しく受け止める。

「ありがとう、レヴィ。どうか、どうかよろしくお願いします。」

ファニベルが深く頭を垂れてそう言うと、レヴィと呼ばれたその者は、

「礼を言うのは私のほうだよ、ベル。不慣れだが、初めてのことじゃない。

 心配いらないよ。」

と答えた。

不思議なことに、その声は周りに漏れることなく、耳の奥に直接やわらかく

囁きかけるようで、不安に支配されていたファニベルの心を温かく包み込んだ。


「もうすぐ夜が明ける。ベル、急いで帰らないと怪しまれてしまうよ。」

ファニベルは小さく頷くと、ゆりかごのような大きな掌の中ですやすやと

眠っている赤ん坊の頬を優しく撫でてから、来た道を今度は全速力で駆け戻っていった。


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オロチノ 血の宿命の子供たち 靄生 慧 @Atsuki_K

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