39 血眸と近衞一可の――

「近衞一可。なして、この姿の地曳富は、右目だけが赤いのだと思う?」


 継嗣がぽつりとそう尋ねてきて、一可は解らずに首を振る。

 磨滅した翁は構わず続ける。


「そいは、この星で初めて、この娘が捕食されたからだ。じゃけん、加減が解らんで喰らいつくしてしもうた。故に、喋ることもままならん。意志もろくにはない。ただ傲慢な食慾しょくよくと、そして、それを操るためにねりあげられた、かの家の血筋の――」


「うん。おじいちゃんは、もういいよ」


 晴れやかな声がその空間へと響き「へ?」と一可が間の抜けた声を上げたときには、もはや継嗣の上半身は消滅していた。

 血の海から飛沫をあげて飛びだした、溶けかけの大咢おおあぎとが――ひとの身の丈の数倍はあろうかという咢だけが、継嗣を噛み千切っていたのだ。

 その身体の継ぎ目から、色彩イロを失った内臓がどろりとこぼれ落ちる。

 カサカサカサカサ……

 一可の耳に、その空間に響き渡る不協和音。

 血の海より次いで這い出したのは、無限と思える数のムカデ、オニビル、ありとあらゆる蟲の大群だった。それは速やかに継嗣だったものに這い上がると、その全てを包み込み、やがて――

 ばり。

 ごり。

 かつん、かつんと、その肉を食み、骨を砕く音を響かせ、やがてそれらが血の海に帰ったとき、もはやその場にはなにも存在しなくなっていた。

 肉片のひとかけら、血の一滴さえ、残ってはいなかった。

 一可は漠然と悟った。

 継嗣はいま、死んだのだと。

 死を奪われていた不屍人ふしびとは、今ようやく、消え去ることで完結したのだと。それを、知った。

 そうして、一可は見遣る。

 とうとう直面する。

 たったふたりになって、それを前にして、怖れでくじけそうになりながらも、震える足に鞭打って。

 一可は立って、彼女を見て――その名を呼んだ。


――!!!!」


 万感の思いとともに放たれたその言葉を正面から受け止め、地曳富――否、両目を赤く、暗い闇のような赤に染めた彼女――血眸・久世悠莉は、何も変わらない儚げな笑みを一可にみせつけたのだ。


「えへへ! やっと会えたね、いっちゃん!」


 楽しそうに、彼女は一可の名を、呼んだ。



◎◎



「おまえ、だったんだな」


 震えそうになる声を無理矢理に引き締め、一可は彼女に尋ねる。

 彼女は微笑んだまま、小首を傾いで見せる。


「どれが、かな?」

「…………」


 一可は泣き出したくなった。

 いますぐにでも自分の両目を潰して、耳をふさいで逃げ出したかった。

 なぜなら、

 だから一可は。

 それでも一可は、己の心を奮い立たせ、問いかける。


「三年前、俺の家族を殺したのは」

「美千代おばーちゃんと約束したんだよー? もうこれ以上、血眸さまの犠牲を出したくないから一族を滅ぼすんだって。それに、あたしは協力したの。だって、そのままほっといたら、いっちゃんも殺されちゃうところだったから。だから助けて」

「その記憶を、地曳富が食べた」

「そう」


 次は?

 そう、悠莉は問う。

 一可は表情を苦しげに歪めながら尋ねる。


「どうして、地曳富を操れる?」

「久世の家系がね、そーゆーものだから。表層意識っていうのかな、食べた意識は全部ごちゃ混ぜになるんだけど、それぞれの考える頭は残ってるの。でも、地曳富はその意識の頭が多すぎて迷っちゃう。だから長い時間ずっと考えて、それで代表をひとり決めることにしたんだ。それが、久世の家で、ゆーりちゃんなのです」

「じゃあ」


 問う。

 彼は。

 一可は。

 致命的な、その問いかけを。

 口にした。


「なぜ――晴美を殺した?」

「……だって、いっちゃんが」


 悠莉は、寂しそうに頬笑ほほえんで見せた。

 それはただ光をうらやんだ、夜のような微笑みだった。


「あのひとのこと、ほんとうに愛してたんだもん」


「……ああ。嗚呼――ぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」


 それは絶叫で慟哭だった。

 魂が砕けるような、鬼が哭いているような、喉が壊れ、千切れ、砕けるような叫び。

 彼はひたすらに叫び続ける。

 絶望が、苦しみが、なによりも悲しみが、これまで辛うじて彼の精神を支え続けていたものすべてが、いま心を千々に掻き乱すような慟哭とともに粉砕され、慟哭となって噴出しているのだった。

 それを、悠莉は愛おしげに眺めている。


「ああああぁ……なん、で」

「うん」

「なんで、なんでだよっ。愛して、愛してたって知ってたんなら、おまえはなんで!」


 悠莉の一言に、一可はなにも言い返せなかった。

 ただ、心を撃ち砕かれた。


(……解っていたんだ。解って、いたんだ。俺は、遅かった。ゆーりが一寿に犯されたことを知らなかった。婆ちゃんが一族を皆殺しにしたいと思っていたことを知らなかった。それにゆーりが関わっていたことも、一寿が関わっていたことも知らなかった。晴美が、妊娠していたことだって……)


「そうだ……妊娠は……なぁ、ゆーり。なんで、おまえ、子どもを殺したんだ。あいつに、赤ん坊に罪なんて」

「――だって」


 困ったような声音。

 唇を尖らせ、すねたような上目づかいで一可を見遣り、そこで初めて、悠莉は笑みを消した。


「あたしは一寿君で、晴美さんはいっちゃんじゃ、ずるいもん」


 だから、と彼女は言う。

 だから殺したのだと、なんの罪悪感も感じさせない声で。


「うん、だから殺したの。あのときはね、まだ血眸さまを上手く操れなくて、酷い殺しかた、しちゃったけど……んー、違うね。ほんとうは嫌いだったから、憎かったから、羨ましかったから、だいぶ苦しめちゃったけど。でも――これだけはうまくいったんだ!」


 そして彼女は、楽しそうに、言う。

 簡単な答えに行きついた子供のような表情で。


「あたしの赤ちゃんは、半分あたし。晴美さんの赤ちゃんは、半分いっちゃん。だったら、ほら、晴美さんを取り込むのだけは絶対嫌だったけど、その赤ん坊の半分なら」


 こんな風に。

 悠莉がそう告げると、血の海の一部が泡立った。

 ぶくぶくと沸騰し、そこから、酷く小さなものが、這い出して来る。

 水かきのような手足。

 小猿のような頭。

 血に塗れた、赤ん坊。


(そうだ。それは、似ていて当たり前だったんだ。面影があって当然だったんだ。俺が怖れたのは、俺が、それを認知したくなかったのは。だって、そんな冒涜的なことは、ありえちゃいけないから――)


「半分と半分を足せば、ひとつだよね! ほら、あたしといっちゃんの――?」


 産声を上げるそれを、悠莉は愛おしげに抱き上げた。

 空洞の中に、おぎゃあ、おぎゃあと産声がこだまする。

 ありえてはならない酸鼻の子供が、祝福とは真逆の呪いを受けて産まれ堕ちた幼子が、赤い眸の彼女の腕の中で、血の香りのする大気を貪っていた。


「ね? 可愛いでしょう? ね、いっちゃん!」

「――俺は」

「ほかのみんなもいるよ? 柊人おじさん、祢津朗おじいちゃん、村のみんな、いっちゃんのお友達!」


 彼女が言う度、周囲の血だまりが蠢き、そこから無数のとろけた人体が這い出して来る。

 小坂柊人、元家祢津朗、久世悠莉の母親、村人たち……そのなかに、元家一寿の姿だけはない。

 そのどれもが恍惚の表情を浮かべ、一可の周囲へと集っていく。

 船越紀一郎、三条玄司。

 その二名の姿も、血となってそこにあった。


「ほら、これなら寂しくないよね、いっちゃん。これからは長い旅になるけど、きっと――」

「俺は!」


 一可は、怒声を上げた。

 だが、その全ての光景が、一可の心を圧し折っていたのだ。その怒りの声は、敗北者のそのそれだったのである。

 がっくりとその場に崩れ落ちながら、一可は叫ぶ。すでにかれた喉、毀れた喉で、それでも訴える。


「俺は、おまえを嫌いだと思ったことなんてなかった!」

「……知ってるよ?」

「おまえが好きだった」

「うん」

「晴美のことは愛していた。じゃなかったら子どもを作ろうなんてしなかった。本気で愛していたんだ……!」

「うん」


(ああ、だけれど、俺は――)


 一可は、ぼろぼろと、泣いていた。

 悔しくて悔しくて、涙がとめどなく溢れていた。

 ずっと心に秘めていた言葉を、彼はようやく口にする。


「おまえが一番、大切だったんだ。おまえが……おまえが! 手を出してはいけないと思うほどに、花は愛でるものだというようにっ!」


(そうして、それが、それ故に。だからすべてが台無しになった。だから。だからこれは、八つ当たりなんだ)


「すまない、すまないゆーり、俺は」


 彼は。

 一可は。

 近衞一可は、ありったけの想いで、叫んだ。


「俺はおまえを……はじめて憎む――ッ」

「――うん!」


 その言葉を受けて。

 悠莉は。

 血眸・久世悠莉は。

 これ以上ないほどの、幸せそうな笑顔を浮かべる。


「うん、うん……! やっと、あたしを真っ直ぐに見てくれたね、いっちゃん!」


 一可は俯いたままで、悠莉のことなど見てはいない。

 しかし、悠莉は確かに感じていた。

 その人を捨ててしまった肉体は、確かに一可より向けられる、全霊のに震えていた。

 その背筋を甘やかな痺れが走る。

 悠莉は軽く絶頂すら覚えていた。

 一可もまた、おさえきれないほどの激情に駆られ、ゆっくりと立ち上がる。

 悠莉が歩み寄る。

 一可が進む。

 歩み、進み、目指し、手を伸ばし、絡め取り。

 一可は悠莉を。

 悠莉は一可を。


 その瞬間に、抱きしめる。


「いいよね?」


 悠莉のそれは、確認ではなかった。

 彼女は、その可憐な口唇をゆっくりと開く。ありえないほどの大口、乱杭歯が剥きあがり、ゾブリと一可の首筋にめり込んだ。

 溢れ出す赤色の液体。圧縮された生命情報。命の貨幣。

 悠莉はそれを飲み干す。

 恍惚とした表情で、生涯愛し続け、化け物となったいまも愛する青年の血液を。

 その甘露にも似た霊薬をいっぱいに飲みふける。

 ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして。

 一可はあえぐ。

 両の瞳から滂沱ぼうだの涙を零しながら。

 天を仰ぎ、声なき絶叫を上げ続ける。

 やがて、一可の身体に変化が生じた。

 その瞳の色が、黒から徐々に赤い色に。

 深い闇の中で輝く星のような、赤く、赫い眸に。

 同時に、犬歯が伸びる。

 メギリメギリと音を立てて、彼の犬歯が急激に伸びていく。

 それは同化であり、端末になり果てる事であり、そして――


「――――」


 一可は迷わなかった。

 鋭利に伸びた犬歯。

 それを悠莉の細やかな首筋に、その柔肌に、突き立てていた。


「――ああ!」


 悠莉が嬌声をあげる。

 その眸が、恍惚に潤む。

 悠莉が一可の血を吸い、情報を巻き上げ。

 一可は悠莉の血を吸い、情報を循環させる。

 廻るめぐる、血の輪廻。

 自ら尾を噛む蛇のように。

 やがて――


「――――」

「――――」


 一可と、悠莉の身体は燃え上がりはじめた。

 赫――否、それを超える蒼い炎で。

 情報の循環――即ち、地曳富という存在がこれまで貯めこんだ膨大な量のエネルギーが、いま二者の間で荒れ狂い、出口を求めて疾走する。

 その摩擦が、その負荷が、有象無象を焼き尽くしていくのだ。

 空洞内の血の海が燃える。

 流れるガソリンに火を放ったように燃え上がる。

 血の人形たちもみな燃える。

 火勢は衰えない。それは外までも及び、玖契村のすべてを焼き尽くしていく。森も、河も、なにもかもを燃やす。


「いっ、ちゃん……っ」


 切なげに、悠莉は一可の名を呼んだ。

 一可は――


「お別れだ、久世悠莉」


 突き放すように、だけれど実際は強く彼女を抱きしめ、その首筋に、ひときわ強く牙を突き立てた。


「おやすみ近衞一可――」

「――おやすみ久世悠莉」


 すべてが、蒼い炎の中に、消えて逝く――

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