38 地曳富と近衞一可の選択

 近衞一可と近衞継嗣は、石造りの階段を、赤い和ろうそくの灯り一つだけを頼りに降っていた。

 長い年月をかけて掘られたのであろうその階段は、件の社の地下から延々と続いているのだった。

 一可は、もう10分近く、地下へともぐり続けていていた。


「継嗣さん」

「なんじゃ」

「玄司さん、逃げ切れただろうか?」

「……奴の運次第じゃ。すでに地曳富の胎動は始まっておる。場合によっては――」

「そう、ですか……」


 継嗣はその手に燭台しょくだいを持ち、ろうそくの火が消えぬよう器用に動かしながら、一可の先を歩んでいる。

 ろうそくの灯りが、彼のしわとしみだらけの顔に独特の陰影を作り、奇妙な表情を浮かび上がらせていた。

 継嗣は言った。


「一可、ぬしは選んだ。いまさら他者をおもんぱかることは出来まいが、だが、ぬしだけならば逃げることもできよう。ほれ、見えるか、その分岐路が。そこを左に行けば、村の外れ、いつかぬしと会ったあの屋敷へと出る。運が良ければ、逃げおおせよう。じゃっどん、右に行けば――」

「俺は、右に行きます。もう、決めましたから」

「……むぅ。最後の機会ぞ? 選び直すことは適わぬぞ? それでも、行くか?」

きます」

「……そうか」


 淡々とした言葉のやり取り。

 自然消滅するように、そのときの会話は打ち切られた。

 次に彼らが口をきいたのは、一可のポケットから場違いなクラシックが鳴り響いたときだった。

 ディスプレイにアナウンスされている名前を見て、一可は声を上げた。


「あ、花屋敷さん! 連絡するのを、忘れてた」


 うっかりしていたことに気が付き、顔をしかめた一可は、慌てて電源を切ろうとする。しかし、なにかを察したらしい継嗣が、視線でそれをいさめた。

 そうして、


「出ろ。禍根を残すな」


 短く、そう告げる。

 一可はほんの少し迷って、それから電話をオープン回線で開いた。


『やぁ、近衞一可君。まったく、この大一番で僕をのけ者にするなんてひどいじゃないか。あんまり忘れ去られていたものだから、約束を破ってこちらからかけてしまったよ』


 一可はすみませんと見えない相手に頭を下げたが、統志郎の声には楽しげな色が強かった。


『いや、謝る必要はない。なにせ、こうして最前列に加わることができるんだ、これ以上の喜びはないとも。それに、僕はいま、そちらに向かっている。頑張ればクライマックスには間に合うかもしれない。とかく、僕の推論が正しければそこは地下だね? 反響の具合でわかる。つまりこの回線もすぐに切れてしまうということだ。まったく惜しい限りだけど、それじゃあさっさと本題に入ってしまおう。近衞一可君、血眸さまとは、なんだと思うかな?』

「それは……」


 それは、よく解らないものだと、一可は未だに思っている。継嗣からある程度の説明を受けても、それは変らなかった。

 そう告げると、統志郎は、したりといった様子で。


『だろうね』


 と、笑った。


『どだい、人間に理解できるものじゃないのさ、かの存在は。それでもあえて定義づけるのなら――僕お得意の屁理屈でこじつけるのなら、血眸さまは情報生命体だ。情報――それがどんなものでもいいのだろう、鉱石の積層による年月の経過、多年植物の年輪、ガスの拡散の範囲。ともかくなんでも。そういった情報を求めて星々の海を渡る、原初の命の在り方。それが血眸さまの正体だと、僕は睨んでいる』

「あれはものの在り様を喰らう。その為だけにこの星へ落ちてきた」


 ポツリと、継嗣が口を挟んだ。

 花屋敷は耳ざとく聴きつけ、一可に『誰だい?』と問いかける。継嗣の許可を得て、一可がひとしきり説明すると、彼は大いに納得した様子で、


『なるほど。目や耳としての端末を確立しているのか』


 そう呟いた。


『継嗣氏に質問したいのだけれど、あなたは短く見積もっても400年近くは生きていることになる。人間がそれだけの長寿に耐えることは無論不可能だ。それは、ひょっとして』

「……そうだ。わしは〝死を食われて〟いる。地曳富の近衞は、真っ先に死を食われ、そして不死の近衞になるのだ」

『だと思ったよ。古文書に残る天降石いんせきの記述にも、近寄ったものは血の気を失い、村はやがて機能不全に陥ったとある。それは不用意に近づいたものが生命のなにか重要な情報を奪われ、場合によっては存在自体が消滅してしまったからだ。。そうしてこのことから、ひとつの仮説が導き出される。つまり血眸さまは、捕食する情報の量を意図的に制限することができるというものだ。簡単にいえば、一部の記憶だけを奪うこともできるはずだということなのだけれど……』


 統志郎の問いかけに、できる、と継嗣は頷いた。

 それを聞いて、統志郎は勢い込んだ。


『ならば更なる仮説だ。なぜそのようなことが出来るか。実に簡単だ。僕たちと変わらない。美味しくない情報は食べたくないし、お腹がいっぱいのときにさらに食べればパンクしてしまう。つまり――』

「地曳富は並大抵の量を食ろうたところで潰れはせん。それは人の及ぶ範囲ではなか」

『……なるほど。では、話題を変えよう。一可君、君は、その地下がどうなっているか、想像がつくかな?』

「え?」


 急に話の水を向けられて、一可は戸惑った。

 それでもなんとか、統志郎に答える。


「なにか〝いる〟んじゃないんですか?」

『それは、おそらく正解で間違いだ。恐らくはね、一可君。

「……はぁ?」


 統志郎の言葉の意味が上手く飲み込めず、一可は見えていないと解っていても首を傾げてしまう。

 対して統志郎は笑うような調子を崩さずに、さらに持論を展開していく。


『膨大な年月をかけて、周囲の生体のすべてを喰らい、すべてを己の端末に変えながら、地曳富は食事行為を続けてきたんだ。最低でも400年。恐らくはそれ以上の年月を。初めは小さな物体だったのかもしれない。隕石というぐらいだ、きっと小さかったのだろう。それは餌を求めた。地上に落ちてくるときに大部分を失ったんだろうね、更なる栄養を求めた。初めは土を喰らい、水を飲み、植物を、野生動物を襲ったのだろう。でも、そんなものでは足りなかった。あるいは、それよりも早く出会ってしまった。高密度情報集積体である存在に』


 興奮したように、統志郎は声を大きくする。そうして一可へと問いかけた。


『一可君! 知っているか、パスカルは人を考えるあしに例えた。それは常に更新され続ける書物という意味だ。我々は、僕らは、情報がたえず移ろう格好の餌なんだ! だから人間が選ばれた! 人間は自分たちが家畜になったことにも気が付かず、せっせと血眸さまに栄養を供給し続けたてきたんだ、便利な道具を使うぐらいの感覚でね! では、ではではでは! その血眸さまの本来の目的とはいったい――』


 ブツリ。

 そこで、通話が途切れた。

 一可がディスプレイを覗き見ると、そこには圏外の文字がありありと書かれていた。


「いくぞ」


 継嗣が言葉少なに告げる。

 一可も黙って続く。

 もはや、彼らが言葉にするまでもなかった。

 その地下へと続く通路のなかには、すでに薄紅色の霧が漂い始め、鼻腔をくすぐる花のように甘い、だけれど錆にも似たざらついた臭気が充ちていたからだ。

 その、むせ返るような大気の中を、一可は懸命に歩く。

 霧はどんどん濃くなる。

 継嗣の姿が見えなくなるほどに。

 それでも一可は歩き続ける。

 歩いて、歩き通し、歩きつめ。

 

 そして――辿り着いた。


 それは、地下に広がる大空洞。

 眼をいかに凝らしても全く見通せないほど広大な、どこまでも広がる闇のとばり。

 しかし、そこに満ちる膨大な量の粘度の高い液体が、赤銅のように輝き、周囲を照らし出している。

 あり得ないほどの超質量のそれは、まさに海と呼ぶにふさわしく、つまりいま一可の目の前には、血の海が広がっているのだった。

 玖契村という一つの規模ではない。

 それをはるかに凌駕する超巨大な空間が、そのほとんどすべてが、赤い液体で満たされているのだ。

 液体は絶えず流動し、絶えずなにかの形を作ろうとしては、ほどける。

 そんな奇妙な液体が、一部のみ地面を露出させ、浮島のようなものを形成している。

 そうしてそこへと続く道のみを、自ら意思を持つように拓いているのだ。

 ぽっかりとあいた空間。

 意図的に造られた空白。

 運命という言葉で塗り固められ、整備された道のはてに。

 そこに――ふたつの影があった。

 ひとつは、当代近衞。近衞継嗣。

 彼は無表情でそこに立ちつくし。

 そして、もうひとつ。


 塗り潰すような鮮烈の赤。

 瞳孔を、虹彩を、黒目を、なにもかも灼熱する鉄のような輝きで満たすそれ。

 黒い着物を着た、小柄なその影は。

 それは。


 右目だけが赤い少女――地曳富は、一可を見て、にんまりと笑ったのだった。


 一可は気が付いた。

 違和感の正体に行きあたった。

 これは、少女などではないのだと。

 それは――





 ――それは、のたうつ情報の嵐がひしめき絡み合う、ひとつの地獄のようなものだった。

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