35 近衞継嗣とすべてへの残酷な――

 近衞美千代は、ただ怖れた。

 近衞家の宿命として、自らが次の、地曳富の〝近衞〟となる運命を。

 何故なら、地曳富の近衞になるということは、長い倦怠のなかで倦みつかれたそれの、その無謬を慰める存在に他ならず。

 すなわちそれは、死ぬことすら許されない永遠の虜囚を表す言葉だったからだ。

 近衞になった瞬間、その人間は死を奪われる。死だけを食われる。死を殺される。

 そうして屍者となった近衞の人間は、この村に縛り付けられ離れられない地曳富の代わりに世界を見る。

 植えつけられた地曳富の感覚をもって、その血眸にて五感ではとらえきれない世界の情報の海を見る。

 極彩色の世界を、視る。

 しかし、それはとても、人間の脳髄がたえられるものではない。

 徐々に精神は壊れ、その度にほつれと傷みを地曳富が喰らい、次の近衞にふさわしいものが選ばれるまで生き続け、死に続ける。

 無理矢理に与えられた道化としての役割が、ともすれば永遠に、偽りの命とともに続くのだ。

 そんな呪われた人生が、美千代は恐ろしくてならなかった。

 だから、打破しようと試みた。


「自分が選ばれた女だちゅうなら、もっと選ばれるに値する最高の子供を産めばいいと。生贄にしちまえばいいと、美千代は考えたのだ」


 禿頭の老人――近衞継嗣は、静かな面持ちで語る。

 そこに、感情と呼べるものは介在していなかった。

 翁は、淡々と、ありのままに事実を口にする。


「一可。そうしてぬしの母が生まれた。だが……あれには素養がなかった。病弱であったからか、或いは他の理由からか、ともかく選ばれなんだ。だから美千代は孫に託した。近衞一可。ぬしぞ、ぬしが美千代の眼鏡に適い、そしてあの夏の日、が手を摂り合ってこの社を訪ねたとき、地曳富はとうとうぬしを選んだのだ。さもありなん。近衞一可とは、最も優れた近衞という意味ぞ。美千代は、あの女はすべてをかけてぬしを作り上げた。あいがすべてを投げ出せば、すぐさまぬしは地曳富と、そして血眸の近衞となるはずであった。じゃっどん――」


 そこで、継嗣は一度言葉を切る。

 乾き切った唇を湿らすように、不気味にそこだけが赤い舌でなめとり、一拍を置いて、続ける。


「美千代は、迷った。こいでよかとかと、逡巡した。あいは、強い女じゃった。じゃけん、選んだのだ。限られた選択肢の中から、悔いることのないひとつの道を。己が代で、すべてば台無しにすることを。元家には内密に――もっとも、すぐに露見したが、祢津朗はとぼけ、なんもせなんだ――久世と協力し、地曳富の宿望を叶えることにした。それで呪いの連鎖を断ち切らんとしたのだ。だが。だがなぁ、美千代は、裏切られた。結果として、美千代は寿命で死んだ。そして死ぬ前に、死期を悟っておった。じゃけん、生きちおるうちにすべての清算ばつけようとした。元家一寿と結託し、そして殺したのだ――己の子を。一族を。そして、近衞一可。ぬしを」

「ばあちゃんが……俺を殺そうとした……?」


 そこまで話を真剣に聴いていた一可の口元から、唐突に笑声が漏れた。

 ひどく渇いた笑い声だった。


「そんな、そんなわけ、ないじゃないか。婆ちゃんは、俺を大事にしてくれていた! 殺されかけたことなんて、一度だって」

「っ!?」


 そう、すべてはそう言った出来事なのであった。

 美千代は呪われた家系に終止符を打つべく、を図った。

 放火の現場で見られた喪服の女性とは彼女であり、もう一人の少年は協力者の元家一寿であった。

 しかし、一可だけは、猛火の中から生き残ってしまった。

 美千代は困り果て、地曳富によって事件を隠蔽しながらも、一可を監視下に置くよりほかなかった。

 同時に、一可を村に近づけないよう何度もそれとなく彼にくぎを刺した。

 それがことの顛末に他ならなかったのだ。


「近衞一可は既に選ばれている。ならば、近寄れば囚われる。ゆえに美千代は、ぬしに来るなと言ったのだ。村へ寄るなと。そして、子を為すなとも……子を為せば、それが次の近衞になるがゆえに」

「そんな……じゃあ、俺は、俺は……」

「ちょ!? しっかりしてくださいよ、近衞一可くん!」


 動揺し、頭を抱えて倒れそうになる一可を、慌てて玄司が支える。

 しかし一可の身体には力が入らず、彼はずるずるとその場に座り込んでしまった。

 慌てる玄司と、俯く一可に、継嗣はなお、言葉を投げた。

 ほんのわずか、その言の葉の中に、揺らぎのような感情が含有されていることに、しかしその場の誰も気が付けなかった。


「……あの日なら、ぬしらがこの社に来た日なら、あるいはわしとぬしが初めて会ったあの日なら、逃げることはできた。世の定めに抗うちゅう、道もあった。じゃっどん、もはや駄目だ。駄目なのだ。近衞一可は、ぬしはあの、人の血を、肉を、魂を喰らう怖ろしいものと向き合わねばならん。ゆえに選べ、近衞一可」


 継嗣は数歩下がると、社の扉をあけ放った。

 軋みをあげてひらく、木製の扉。

 虚空のような闇が、そのなかには満ち満ちている。

 その闇と同種の、摩耗し切った一切の感情のない声音で、翁は冷然と告げたのだ。


「この社の地下は二つに別れる。ひとつは村人が地曳富をまつるために作ったあの家へと続き、あるいはこの村から逃げ出すことが出来るだろう。そうしてまた、ぬしは暗澹たる日々を続けるのだ。じゃっどん、もし。もし、逃げずに、この陰滅の地獄へ、終止符を打つというのならば、わしとともに地下へと潜れ。そこに」


 この世でもっとも残酷な真実が――待っておる。


 近衞継嗣はそう告げて。

 そして、一可は。

 そうして彼は。

 近衞一可は、選択をくだしたのだった。

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