34 辿り着いた場所と、痩せぎすの翁と

 ふなーご、と。

 なにかが老人の足元で鳴いた。

 闇の中で、月の光が凝ったような純白の、ただし両目が赤い猫が。

 そのアルビノの猫が、針のような瞳孔をさらに細めて、翁に物言いたげな視線を突き刺しているのだった。


(あの猫だ……!)


 そう思ったのは、一可だけではない。

 玄司もまた、一可の隣で怯んだように表情をこわばらせ、ジワリと一歩、退く。

 禿頭の老人は、そんな一可たちを一瞥すると、すぐさま猫へと視線を転じた。


貴様きさんか。わかっちょる。わしの振る舞いば気に食わんちゅーとは、ようようわかっちょる。じゃっどん、。そいばわしらは弁えんばならぬ。大望のため、宿願のため、いまの血眸が目付めつけに成り下がった貴様には、一時、黙っちもらうほかなか――」


 そう言うなり、老人の手が、不自然な動作ですばやく伸び、猫の首を捕まえる。

 翁の手の中で、猫が暴れる。

 シューシュー、フシュー、フシャーと、蛇のような、猫とは思えない奇怪な喚き声を上げながら、猫は激しく身をよじり、老人の手に爪を突き立て逃れようとする。

 肌色の悪い老人の、その枯れ木のような腕に深く傷がつき、皮膚が裂けた。

 だが――そこで奇怪なことが起きた。

 不可思議なことに老人についた傷からは、一滴の血液もこぼれ落ちはしなかったのだ。

 老人が、ほんの僅かな哀悼を滲ませ、呟いた。


「おう、しばしの別れじゃ。なぁに、すぐにみな、同じになるでな」


 メギリ。

 響いたのは、軽く、だけれど重たい音だった。

 一可たちの目の前で、一瞬前まで猫だったものの首が圧し折れ、地に落ちて、そして。


「ぁ、ぁぁ あぁ、あ ぁ ぁ」


 未発達な発声器官が奏でるそれに似た断末魔を残し、まるでとけて地面にしみこむようにして消えていった。


(なんで)


 その消え行くさまを見て、一可は胸を押さえる。


(なんで俺には、あの猫がに見える……?)


 消え行く寸前、猫の姿が誰かの面影を帯びた赤ん坊に変じ、そしてその赤い眸が、まるで自分を見詰めていたように思えて、一可はうろたえずにはおれなかった。


「逃げとうなったか」


 ポツリと老人が吐き捨てた言葉に、一可は、え? っと顔を上げる。

 彼の視線の先で、禿頭の老人は傷まみれの、しかし血液の一滴すら流れ出ない腕を擦りながら、一可を真っ直ぐに見て――否、睨んでいた。


「いまさら逃げとうなったか、大馬鹿者オオバカモン。あのときならまだ、ぬしは知らぬ存ぜぬでおれたろうに。だが、もはや退くことはならん。ならんのだ。血眸に選ばれ、地曳富にも選ばれたぬしには、いまや二つの道より選ぶほかないのだ」

「まっ」


 ついていけなくなり、一可は思わず叫んだ。


「待ってくれ! なにを言ってるのかさっぱりわからない! なんなんだ、これはなんなんだ!?」

「そうですよ!」


 そこで。

 ようやく話に切り込むき切っ掛けを見出したのか、玄司が口を挟む。


「あなた、なにかご存知ですね? あたしは県警の刑事です。市民には協力する義務があります! 事情をお話願えますねっ?」

「警察……?」


 禿頭の老人が、右の眼だけを器用にしかめる。

 その視線が探るように揺れ、やがて得心いったとでもいうように、呆れた表情をのぞかせた。


「はぁん、官憲かんけんか。いままでさんざんっぱら地曳富ば利用してきちょって、事情もなんもなかろうもん。知らされぬということは、そのほうが幸せちゅーことじゃ。貴様はそれでよい。……じゃっどん、ぬしは」


 もとより玄司のことなど眼中になかったというように、老人の視線が一可に向く。

 その眼差しは依然、刃物のように厳しい。

 しかし、その奥底でわずかに憐みのようなものが渦巻いていることに、一可は気が付いた。

 ついで、この老人の訛りが、


「ぬしには事実を教えにゃならん。教え、選ばせねばならぬ。それが近衞の――わしが末孫に帯びる責任だからだ」


 近衞一可。


「ぬしはわしの雲孫うんそんじゃ。わしはぬしの――八代前の先祖に、あたる」

「…………」


 その言葉を聞いて、一可は目をとした。

 まったく言葉の意味が解らなかったからだ。


(雲孫? 八代前の先祖? なんだ、ただでさえおかしな状況なのに、こいつ狂ってるのか? だって、そんなに……人間が長生きできるわけが)


「たかが人間が、そげん長生きできるわけがあない。そう考えちょるな? 気持ちはようわかる。じゃっどん、こういうことができるモンが一つだけ、この世にはおる」


 それが、地曳富なのだと、老人は語る。


「なぜ我が家に、近衞の名が振られたと思う? それは地曳富を守るためぞ。外敵から? 違う、あれをどうこうできるものなぞ、この世にはなか。〝〟。ただそのひとつからのみ、あれを守るために、わしと一族はあったのだ。長い、果てしない月日は、やがてあれを腐らせる。意識だけのものとはそういう性質のものよ。そのむことを先延ばしするためにわしらは」


 老人が、ガッと、おのれの服を掴んだ。

 そうして、そのボロ布のような服を、彼は力のままに引き裂いたのだ。


「こがんなるっちゅーば、許容した」


「「――!?」」


 一可と玄司は、ほとんど同時に絶句した。

 なぜなら翁の全身には、そのミイラのような全身には――


「近衞一可、いまこそぬしに教えるときぞ。わしの名は近衞継嗣けいし。ぬしが先祖にして、当代の地曳富が近衞このえ。そして本来、代替わりすべき、絞りかす。近衞一可。すべては、わが昆孫こんそん――近衞美千代のはかりごとから、はじまったのだ」


 いま、ひとつの真実が、暴かれる。

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