第十二幕 花屋敷統志郎と痩せぎすの翁と残酷な――

33 花屋敷統志郎とその推理と


 花屋敷統志郎は、明らかに自分が書いたと思わしき筆跡の――しかし欠片も覚えがない数字の羅列られつと向き合っていた。

 彼は夏になると、北国へ長期のバカンスに出かけるのが常であり、このときも北の大地にある、とある高級ホテルで執筆活動をしていた。

 時刻は既に真夜中であり、随分と筆が進んだため、少し珈琲ブレイクを入れようかと、持ち込んだノートパソコンの前から腰を上げたとき、彼の眼にその紙片は触れたのである。

 統志郎の職業はミステリー作家であり、物覚えには抜群の自信があったのだが、しかしめつすがめつも、その文章が意味するところは解らない。


(というより、これをしたためた記憶が、僕にはない)


 まったく統志郎の心当たりがない、しかし彼の筆跡であることは疑いようもない癖のある文字が、都合7枚の紙きれに殴り書きされているのである。

 書類の左上、その隅には1から7の数字が打たれており、どうやらそれが、一続きのものであることが彼には理解できた。

 ナンバーリングであることは統志郎にとってたやすく推理できることだったが、実際に問題であったのはそれとは別に、ほとんど無秩序といっていい具合に紙面で踊る7ケタの番号、その集合のほうであった。


(もっとも、すべてが解らないわけじゃないんだ。これはおそらく、なにかの表に対応した暗号の――換字式暗号の類だろう。古典的なボリュビオスの暗号表のように、たとえばこの一列の数字がアルファベットの何文字目を示すといった類のものだ。問題なのは、その対応したがなんなのかわからないと、どれほど僕が優れた頭を持っていても皆目見当すらつかないことなのだけれど――む?)


 眼の前に暗号などというものを突き付けられれば、とにかくとかなければ気が済まないのが統志郎の属するミステリー作家という人種であったが、しかし、この世には解けない暗号――まったくの無秩序である暗号の呈を為していない暗号というものも存在する。

 なぜ自分が書いたと思わしき文章がそんな有様なのか首を傾げはしたものの、統志郎はそれを解けないものとして投げ出そうとした――その、絶妙なタイミングで、ひとつの電子メールは着信を告げたのであった。

 執筆用とは異なる、しかし統志郎所有の、オンライン状態にあるノートパソコン。

 そこに、一通の電子メールが届いている。

 見れば、差出人は彼自身であった。


(僕が僕に、時間指定をしてメールを送っている? 件名は……僕の編集担当者変更について?)


「……おかしいね、僕の編集は、小俵おだわら荻人おぎひとから一度も変わったことがないはずだ。それをどうして僕が僕に知らせる?」


 ぶつぶつと呟きながら、統志郎はメール自体を開く。

 もちろんウイルスチェックは欠かさない。

 ミステリー作家以前に現代人として当然のたしなみだった。

 はたして、そこに書かれていた内容は、わずか1文に過ぎなかった。



『菫色の探究の担当編集者は?』



「――――」


 統志郎は一時、言葉に詰まって、そして次の瞬間には、すさまじい勢いで自分が持参した荷物をひっくり返しはじめた。

 整然と整理されていたキャリーバックやボストンバックがひっくり返され、その中身をキングサイズベットの上に散乱させていく。

 癇癪かんしゃくを起こした子どものように中身を取り出していた統志郎は、やがて〝それ〟を手に取り、硬直した。

 彼の荷物の中に、持参した覚えのない書籍が――菫色の探究と題された本があったからだ。

 我に返った統志郎の行動は素早かった。

 メモ用紙と万年筆を掴みとると、小脇に抱えた菫色の探究とともに謎の暗号のもとに取って返す。

 そうして、7ケタの番号を指でなぞると、

 はじめの番号は、2390615。

 統志郎の指が這う。

 それは〝h〟であった。

 そのあとも、統志郎は暗号を解読していく。そして次第に、それがひとつのURLであることを突き止める。

 httpsで始まる一連のアドレス。

 ことここに至って、統志郎は躊躇わなかった。即座にオンラインのパソコンの前に取って返すと、そのアドレスへとアクセスをはじめる。

 辿り着いたサイトには、またも数字の山。

 しかしこちらは、3個の数字の組み合わせであり、105以上の数値、そして最初の桁が1以上、最後の桁が6以上のものも存在しなかった。


「五十音か!」


 嬉々とした様子で更なる暗号の解読にいそしむ統志郎の表情は、しかしコードを読み解くにつれ、強張っていった。

 最後の1文を解読し終えたとき、彼は失語症のように言葉を失い、その顔色は蒼白になっていた。


「……なんてことだ」


 長い、長い時間をかけて、ようやく絞り出すようにそう独白した統志郎は、右手で顔をおおい、そのまま宙を仰いで、身体を小刻みにふるわせた。

 笑っていたのだ。

 花屋敷統志郎は、笑っていた。

 おかしそうに、愉快そうに、口元だけを歪めて、彼は声もなく笑っていた。

 どれほどそうしていたことか、やがて彼は、懐へと手を伸ばす。

 つまむようにして取り出したのは、一台のスマートホン。

 そうして、いままで解読していたサイトの――そこに記された不自然な並びの数字たちが描き出す、

 呼び出し音が鳴り響くコール

 やがて、通話は疎通になった。

 統志郎は相手が応じるよりも早く、言葉を紡いでいた。


「では、その電話の持ち主の、忘れ去られた名前を語るとしよう――」


 彼は、真実を告げる。


「船越紀一郎――それがきみの親友であり、きみの窮地を救った、僕の担当編集者の名前だ」


 統志郎の口元は、いつまでもいびつに、楽しげな笑みを形成し続けていていた。

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