32 追跡者と森の社の――
「あ――あんたはいったい? それになんで船越の――」
戸惑いと感涙という二つの感情がないまぜになって、声が上擦る一可に、しかし電話のむこうの相手は落ち着いた、どこか笑みをたたえたような声音で応じる。
『おちつきなさい。僕の名を問うているのなら、花屋敷統志郎だ。これでも作家なんて職業についている。そうして、血眸さまが捕食した情報でありながら、なぜ僕が紀一郎くんの存在を覚えているかと言えば――厳密にはなにも覚えてはいない』
え? と、一可が声を漏らす。
(覚えていないって……それは、どういう……)
混乱を一可は隠せない。
彼はその思考の結果と、外部による刺激により、船越紀一郎の存在を思い出していた。
近衞一可という特別存在であることが、それを可能にした。
しかし、それは一可の理解の外だ。
故にわからないことが圧倒的に多く、彼は戸惑いを隠せなかった。
それを見透かしたように、電話の向う側の人物は語る。
『うん、疑問は尽きないだろうね。だけれど、ともかく今はその場から逃げることを第一にするんだ。事情は後で、語れるだけ語ることを約束しよう。近衞一可くん、その辺りに、一時的にでも身を隠せるような場所はあるかな?』
理解できない言葉の上からそんなことを尋ねられ、一可は困惑を隠せなかった。
それでも「社が」と、必死に考えて答える。
「社が、あるんだ。村のみんなは近づかない社が」
『結構。ならそこに逃げ込みたまえ。僕の推論の通りなら、きっとそれが最善のはずだ。よし、この先を考えるとバッテリーが心許無いな。いったん通話を打ち切るから、うまく逃げ延びることができたり、状況が変化したら連絡をよこして欲しい。では』
言うなり、ぶつりと回線が途切れた。
面食らった一可は、また掛け直そうとするが、たしかにそのスマートホンのバッテリーは残りが少なく、一可は渋々胸ポケットに端末を戻すしかなかった。
「なんだってんですかい、近衞くん? いまの電話はいったい?」
「詳しいことは後で説明します、刑事さん。とにかく、もう少し森の奥まで逃げましょう!」
「もう少しって言いましてもね、これ以上の山奥はちょっと……」
「絶好の隠れ家があるんです! なんとかそこまで――っ!?」
言いかけて、一可は息を呑んだ。
背後でちらちらと、なにかが燃えていたからだ。
夜の森の、その暗がりの中から、ひとつ、オレンジの火が現れる。
それはどこからともなく出没し、数を増やし、ふたつ、みっつと燃え上がっていく。そうしてあっというまにとんでもない数になった。
30を超える炎。
そのいくつもの火の中から、ハイビームのような光線があちらこちらに伸びている。
(あれは――懐中電灯の灯りだ! じゃあ、ほかのは……
そうして、そうだとすればその追手が、玖契村の住民であることは想像に難くなかった。
同じ結論に達したのだろう、一可の隣で玄司も青い顔をしている。
ともかく逃げなければと、額にびっしょりとかいた汗ともろともに、流れ続けていた瞳のしずくを拭い取り、一可は走り出す。
その背後で、
「おおーい」
「おらんのか」
「こっちはいない」
「さがせ、近衞の孫は必要だ」
「さがせ、もう始まっているんだぞ」
「おおーい」
と、幾つもの声が響いているのが一可の耳には届いていた。
そのなかに混じる、
「一可ぁ! どこだああ!?」
怒鳴るように叫ぶ、自分の叔父の声も。
「こいつあ、ヤバイ。あたしはケツを撒くって、さっさと逃げさせてもらいますよ!」
冷や汗まみれの玄司が、年齢に見合わない健脚で一可の前にでる。
一可は、
「そっちじゃない! こっちです!」
小さな声で初老の刑事を誘導しながら、森の奥を目指す――
◎◎
玖契村の四方を囲む山。
そのうちのみっつは、植林が施された人工林であり、針葉樹がおもに植えられている。
しかし、裏山と呼ばれるそこだけは、いにしえの時代から植生の変わらない植物たちが繁茂し、とくに夏の盛りであるいまは、これ以上なく青々と茂っている。
夜の闇の中にあって、ゆえに森は静寂を抱いてはいなかった。
繁茂するしげみの、そこここで虫が鳴き、梢が風に揺られ鳴り渡り、どこかでは獣が声を上げる。
特にその夜は、ひとの声が煩わしいほどにうるさく響いていた。
そんな中にありながら、その一角、その場所だけは、まるで水を打ったかのように、しんと静まり返り、玄妙にして不可侵な、眼に見えて生物の侵入を拒む静謐だけが充ちていた。
社であった。
狛犬や稲荷、鳥居といった解りやすく、また不可欠なオブジェクトはない。
しかし、それが社――なにか触れてはいけないものを祀る場所であることを、近衞一可はこれ以上なく知っていた。
「こ、ここですか、近衞一可さん……? できればあたしは、こいつは遠慮したいって気分でいっぱいなんですが……」
「……安心してください、刑事さん。ここに、村の人間は絶対に来ませんから」
「やー、そうでなくてねぇ、このピリピリと肌を刺すような圧力が――ちょ、ちょっと、近衞さん!?」
なにかを言い募ろうとした玄司を無視し、一可はその社へと向けて進んでいく。
彼に迷いはなかった。
幼い日、彼は一度、ここを訪れている。
ほかでもない、ひとりの少女に呼び出され。
その結果として、村の一員として認められたあの日に。
(どうして、忘れていたんだろう、俺は……そうだ、ここで待ち合わせたんだ。あいつは、崖から転がり落ちて怪我したんじゃない。ここで――)
回顧の念とともに、そっと社の扉へと手をかける。
そのとき、
「帰ぇーれ、誰いも、おまえが、此処におるとば望んどらん――わしはそがん言うたはずじゃ、この」
その枯れ果てた泉のような声は、一可の背後から青天の霹靂のように響いた。
ぎょっと、ふたりが振り返る。
そこにいたのは、
「大馬鹿者が」
禿頭の、射すくめるような視線を持つ痩せぎすの老人だった。
その老人が、苦虫をかみつぶしたような表情で、そこに立っていた。
「ふなーご」
その足元で、白い猫が、鳴く――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます