第十一幕 逃走と遺志と森の社の――

31 逃走と犠牲と親友の遺志

 近衞一可は息を切らせ、夜の森のなかをあてどなく逃げ惑っていた。

 ひとりではない、息遣いがもうひとつ、背後にある。

 積もった枝葉を踏み折り、逃走を続けながら、彼は必死に考えていた。

 もはや正常とは言い難い精神状況で、それでも必死に思考を続けていた。


(どうして、こうなったんだ!?)


 そう、考えていた。

 ただ、惑乱していた。

 突如、右目だけが赤い小柄な少女――乱杭歯の少女へと変貌した元家一寿の毒牙が一可に迫ったとき、背後から救いの手は差し伸べられた。

 一可の喉笛が噛み千切られる寸前、その身体を背後へと引き倒した存在がいたのだ。

 ガチン、と、目前でトラバサミの如き大咢オオアギトが閉じるのを、奇妙に停滞した視界でとらえながら、一可は倒れ込む。

 背中を強かに廊下に打ち付け、息が詰まる思いをしたところで、脇下から手を差しこまれて、無理矢理に立ち上がらされた。

 見遣れば、船越紀一郎が焦燥にみちた面持ちで、一可を抱え上げていた。


「逃げるぞ、近衞!」

「でも、船越あいつは!」

「でも、じゃない!」

「っ」


 紀一郎が一可を怒鳴りつける。

 一可が思わず口を閉ざすと、紀一郎は諭すような口調になり、


「だいたい話は聞いていた。だが、いまは逃げるしかない。おまえまで喰われたら、犬死どころじゃない。なにせ、!」


 そう叫ぶように言った。

 それでもと、一可は抵抗を示したが、紀一郎は少しも力を緩めることはなく引き摺って行こうとする。

 ふらりと、闇の中で赤い眼差しが、光芒を曳いて揺れる。

 それは夜空を不吉な流星が流れるような不規則な軌跡を描き、動き出す。

 トン、と床が鳴ったときには、一可の目の前に愉しげな笑みがあった。


「な――」


 常軌を逸した、人間的ではない動き。

 もとよりひととは違うなにかが、またも一可の喉元に食らいつこうと口腔を開く。


「近衞っ」


 短く、誰かが叫んだことを一可は覚えている。

 しかし、そのあとの記憶は、判然としない。

 自分の前に突き出された、一本の腕。

 ゾブリと食い込むのは、真珠色の乱杭歯。

 吹き上がり、噛み千切られ、夜の静謐に咲き乱れる、極彩色の血飛沫と肉片。

 宙を舞う、砕けた眼鏡。

 誰かが、彼の名を呼んだ。


「一可――覚えていてくれ、俺の名は――」


 その先を、近衞一可は覚えていない。

 胸に小さな衝撃を感じ、気が付けば、元家の屋敷から逃げ出して、いまは森の中を走っている。

 背後にはひとつの息遣い。

 それはすぐに、彼の隣に並んだ。


「だいじょうぶですか、近衞一可くん! 口論が聞こえましたから向かってみれば……あんなのは長年生きてきましたがね、もはじめてみましたよ! 魂消たまげました!」


 、度胆を抜かれた顔で、一可に横に並んでいる。

 その光景に、ただそれだけのことに、一可はひどく狼狽し、同時に打ちひしがれていた。


(なんだ? どうしてこうなった? 解らない、なにがあったんだ? どうして――?)


 青年の頬を、止めどなく零れる涙が冷たくしたたり落ちていく。

 一可の知りようがないことではあったが――そして、知っていても無意味ではあったが――船越紀一郎に関する記憶は、すでに彼の中から奪われてしまっていた。

 

 一可はそれを知らない。また、解らない。

 故に、頭の中で情報が上手くつながらず、齟齬を起こしているのだ。

 奪えるといっても、その量を取捨選択する以上、絶対に違和が生じるものなのだ。


(だけれど、俺は知っている。


 その奇妙な感覚を彼が体験するのは、これが初めてではなかった。

 過去に一度、近衞一可は体験してる。

 知っている。

 わずか、三年前に。


(母さんと父さんが死んだ夜。あの火事の夜。確かに俺は、ふたりと一緒にいたんだ。なのに、気が付いたら病院だった。一緒に眠ったはずなのに、俺だけが無傷だった。そのとき、これと同じ感覚を経験したんだ。まるで、完成したジグソーパズルから、ピースをひとつ抜き取られたような感覚。!)


 どこかで見覚えのある、そんな単語。

 たったそれだけの細い道筋から、一可は物事を類測する。普段の彼ならば、いかなる状況でもそのような叡智には適わなかっただろう。その手は届かなかっただろう。

 しかし、混乱状態を超えた彼の頭脳は、その短い人生のなかで、最も高い境地に達しつつあった。


「刑事さん!」

「はい? 話すのは安全なところまで逃げてからでも――」

「俺達は何人で、この村に来ましたか?」

「――――」


 その質問だけで、玄司にはすべてが通じたようだと一可は思った。

 実際、驚愕が抜け切れていなかった初老の彼の眼差しに、鋭いものが戻っていた。

 恐怖に染まっていた玄司の眼の色が、わずかに現実を見据え始めたのが一可には解った。


「近衞一可くん、走りながら話しましょう。あたしが見たものは、赤い目ん玉のバケモノに襲われるあなただけです」

「ほかに誰かは? 一寿は?」

「一寿氏の姿は見えませんでしたよ、いたんですか、あの場に? いや、いなきゃおかしいのか、彼のための座敷牢だったんですから」


(そう、一寿はあの場にいたはずだ。だが、俺を庇ったのは十中八九あいつじゃない。あの人面獣心じんめんじゅうしん人否人にんぴにんは、俺が苦しむことを楽しむだろう。助けるなんてもってのほかだろうし、わざわざ事実を語って聞かせたのだって、俺を打ちのめしたかったからだ。じゃあ、誰が俺を助けてくれた? 絶体絶命の俺を、いったい誰が……)


 一可はめまぐるしく思考を続ける。

 これまでの人生で出会ったすべての人物、その誰が自分を助けてくれたのかと考える。

 それは叔父である小坂柊人か。

 あるいは村の事実上の支配者である元家祢津朗か。

 既に死者である木戸晴美か。

 それとも――


(その、だれでもない。俺を助けてくれたのは、その動機がある人間は別にいる。俺が親友だと思い、俺を親友と呼んでくれたあいつは)


 一可の脳裏をかすめる、いくつかの光景。

 楽しげに話し込むクラスの中で、ぽっかりと空いた空席。

 好きでもないジンジャエールと、真夏に食べるものではないあつあつの雑炊。その対面に置かれた、食べかけのざるそば。

 そして、警察署の前で尻餅をつき、痛む頬を呆然と抱える自分自身。


(その、すべての場所に居合わせたはずの彼は――)


「くそっ!」


 一可は毒づき、ギュッと目を閉じた。

 街灯などない夜の森の中で、それは危険極まりない行為だったが、それでも衝動が一可を突き動かしていた。

 悔しさが一可を蝕んでいた。

 あと一歩、手が届かないのだ。彼は思い出せないでいるのだった。


「ちくしょう!」


 もう一度、彼が悔しさを吐きだし、自らの足を殴りつけた。その、刹那だった。

 彼の上着のポケットで、なにかがメロディーを奏でた。

 着信音。

 一可はハッとなって手を伸ばす。

 そのメロディに彼は聞き覚えがあったからだ。


(ビョートル・チャイコフスキーの1812年序曲!)


 ポケットから取り出してなお、ノスタルジックなクラシックを紡ぎ続けるそれは、一可には見覚えのないスマートホンだった。

 着信。

 ディスプレイにアナウンスされているものの名前は『花屋敷統志郎』。


 一可の記憶がフラッシュバックする。


 玖契村に来る道中、その前の段階で、彼はその名を目にしていた。車中、胸のうちを整理するために借りて読んだ本。

 その著者の名前こそが、花屋敷統志郎であり――

 一可は、迷わず電話に出た。


『では、その電話の持ち主の、忘れ去られた名前を語るとしよう――』


 明るく、滑舌のいい声が、その名を告げる。



 ――船越紀一郎――



『それがきみの親友であり、きみの窮地を救った、僕の担当編集者の名前だ』


 いまわの際に紀一郎が残した最期の希望が、輝き始める。

 あらたな、しかし熱いしずくが、いま一可の頬を伝う――

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