30 ひとつの真相と、憎悪と、赫眼の――
「一寿ぃぃぃッ!!!」
バンッ!
気が付けば、一可は座敷路の格子戸へと組みついていた。ほとんど激突といってもいい速度で彼は一寿に飛び掛かろうとして、格子戸に阻まれてしまったのだ。
それでも必死に、憎悪に歪んだ鬼のような形相で、一可は格子戸の向う側へと、その暗がりへと手を伸ばす。
激情に震え、何度も宙を掻く右手。フッ、フッと短く何度も、荒々しく獣のように漏れ出す呼気。
一可は、完全に理性を喪失していた。
そうしてそれは、一寿にとってこれ以上ない愉悦であった。
一寿は嘲笑をあげる。
「それだ! その顔だよ! それが見たかった! おまえがおれを羨み、おれに憎悪を向けるその顔が! 答えてやるよ、近衞一可! いまおまえが、一番知りたいことを!」
小太りな青年は、両の頬に手を当て、恍惚とした表情で一可を見つめながら、禍々しい言葉を口から紡ぎだしていく。
どす黒い、猛毒を伴ったその言葉は、悪意の奔流となって溢れ出す。
「久世悠莉が消えたとき、おれの中のあいつも消えた。だが、元家の血が忘れさせなかった。違う、そうすることで初めて元家のサダメがおれに降りかかったのだ――いまこの脳髄の中に拷問のように流し込まれる地獄のように、あいつが俺に見せる悪夢のような情報の怒涛が、あの瞬間おれに降り注いだ。それが元家の使命だ。千年以上のあいだ蓄積された膨大な、五感のどれにも該当しないような圧倒的な〝波〟が、一己のおれという個人へと流れ込み、粉砕した。そのなかに、あいつがいた。そしてあいつの記憶から、おれはおまえが、まだ満ち足りたものであることを知った! 無知だったおれは、元家としての啓蒙を得て、そして気が付いたのだ。どうすればおまえを苦しめられるか解った。あとは、あとはひどく簡単だったぞ、一可……!」
早口に、長広舌をまくしたてながら、それでもなお語り尽くせぬとばかりに一寿は弁を重ねる。
そのすべてが一可の精神を逆なでし、煽り、嘲笑し、侮蔑するものであり、その冒涜の限りを尽くすすべてが――彼を憎悪の一色で塗り上げていった。
「おれは玖契村を出て、おまえの女――木戸晴美に会いに行ったのさ。そうして力づくで犯しながら、教えてやったんだ、おれの頭に入ってきたすべての真実を。呪われたこの村と、くそたっれなおれ達の物語を! 結果? 結果は知っての通りさ、おまえのフィアンセ。恋人。愛したものは、粛清のように殺された。秘密を保持するために殺されて、見せしめのように解体(ばら)されて、そうしてそれを隠蔽するために、血眸さまが使われた。よかったぞ? あの女の肉も、その断末魔も、素晴らしい不協和音だった!」
「殺す! かず、一寿っ、殺す! 殺してやるっ!!!」
「ははははははははははは!」
一可の殺意を真っ向から受けて、一寿は高らかに笑う。
可笑しくて仕方がないという様子で、腹を抱えて笑う。
「殺す? ああ、殺すね。そっちのほうが万倍はよかった。死んだ方がましとはこのことだ。おれはすべてを得た、だからおまえに殺されてもよかった。あのときなら、あの瞬間ならよかった。でもいまはダメだ、死ぬことをあいつが許さない。そんなナマッチョロイものを、許してはくれない――同じものとなることすらできない。いずれおれは無残に殺されるのだ、その時まで保存されるのだ。肉体の枷と、情報の海、その中間を中途半端なまま、おれは永劫に彷徨うしかないのだ。だから、だからだから、せめていま、この通り正気であるうちに、おれはおまえに暴露するのだ! おまえに、本当の絶望を教えてやるんだ。木戸晴美。おまえが愛したあの女を殺した犯人は――」
そこまで。
そこまでだった。
そこまで口にした瞬間、一寿の表情が一変した。
それまでの狂ったような嗤笑が消えうせ、苦しみに陶然となるような、不可思議な表情が表層に現れた。
漂白された。
その口元からは、
「ぁ、ぅ――ぁぁぇ」
と、意味をなさない
「こここ――これだ、一可、いいいいいっか、ぅぅぅぅ、見ていろ……くるぞ、ぃぃぅぃぃ、これが、これこここれ、これが、おれたちの――呪いの正体だ」
一寿の眼球がでたらめな軌道を描きながら乱れ動き、その視線があちこちに飛ぶ。
なにかを探しているかのように。
そして、なにかを見つけたようにピタリと――
一可を見詰めて、止まった。
一寿の口元が吊り上る。
そのとき、一可は確かに見たのだった。
元家一寿が、一寿だったものが、化生に転じた瞬間を。
――
「にげ、ろ。一可。ごめんだ、おまえまで残るのは、ごめんだ。いけ、裏山の、社――」
途切れ途切れの一寿の声は、それだけを告げると、完全に沈黙した。
そうして一可のまえに、それが現れる。
闇の中から、ひたり、ひたり、と。
素足が畳を擦る小さな音が、一可には処刑斧を引き摺る音色のように思えた。
暗がりから延びる、ほそい、しろい手。
それは、驚愕から金縛りにあったように動けなくなった一可の頬に、そっと触れる。
(冷たい!)
いまにも恐怖に叫びだしそうになる、引き攣った彼の頬を、その、白魚のような、蛆虫のような、白い細い指が、ほろほろと這い回る。
はぁぁぁぁぁ……
生温い吐息、蛇の哭くような不気味な、蝙蝠が叫ぶようなけたたましい、細く長い、なまぐさい息が、一可の顔にかかる。
それはもうそこにいた。
黒い着物を身にまとった。
右目だけが鮮血のように赤い。
一可だけが見て、一可だけが違和感を覚える。
――少女、血眸――
華やいだ、甘い香りとともに。
その悦笑に染まった口元が、喜悦に塗れた乱杭歯が、格子戸などないようにすり抜け、一可の首許へと――
「――近衞ッ!!」
一可は、遥か彼方から自分の名を呼ぶ、誰かの声を聴いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます