29 元家一寿の正気と狂気

(……眠れない)


 紀一郎の不意の訪問からいくばくかの時が経って、一可は布団の中に入っていた。

 何度も寝返りを打ちながら、どうにか落ち着かぬ心中と、惑乱を極めた頭の中を整理しようとするが、ほとんど流されるままにここまで来てしまった一可には、それは難しいことだった。

 胸の中で煌々と燃えていたはずの怒りも、いまでは感じ取ることが難しくなっていた。


(俺は、どうすればいいんだろうか)


 一可には、いまいち、それが解らない。

 悠莉を探し出すこと、晴美の復讐を果たすこと、それがつい直近まで彼を突き動かしていた衝動のはずだった。

 しかし、真実とも思えない事実を祢津朗に突き付けられてからは、それが揺らいでしまっている。


(なんだろう? よく、解らない。結局、ゆーりは血眸さまに喰われたからみんなの記憶から消えて、そして俺は近衞の家の人間だから記憶が残った。晴美はそのことを知ったから殺されたってことなのか? ――ん? でも、これっておかしくないか? なんだ、なにか、この考えかたが間違っている……?)


 彼がおぼえたのは、ふたつの違和感だった。

 ひとつは、近衞の家の人間が、血眸さまに喰らわれてなお記憶を有するというのなら、小坂柊人はどうなるかということ。

 そして、もうひとつは――


?」


 そう、それはまだ、なにひとつ明らかになってはいない事柄だった。

 血眸さまの正体が暴かれても、村の成り立ちを知っても、彼が久世悠莉のことを忘れなかった理由が判明しても、その問題だけは常に宙に浮いていたのだ。

 ことここに至ってそれに思い至り、一可は寝床から飛び起きた。

 とても眠っていられる心地ではなかった。


(そうだ。祢津朗じいちゃんは、血眸さまの食べ物は人の在り方や記憶だけだって言った。だったら、わざわざ晴美をあんなに惨たらしく殺す理由にはならない。よしんば……たとえば、なにか理由があって誰かが晴美を殺して、その隠蔽に血眸さまが使われたとしても、あんな殺し方で、そしてわざわざ遺体が残るようにする理由なんてないはずなんだ。もっと、綺麗さっぱり全部の情報を消してしまえばいい。晴美だっていなかったことに出来たはずなんだ。だとしたら、これは血眸さまじゃなくて、誰か別人の――


 木戸晴美を殺した人間がいる。

 そのたったひとつの事実が、一可を目覚めさせる。

 もはや彼は、一秒たりともジッとしていることはできなかった。一時たりとも立ち止まっていることはできなかった。

 これまではオカルト染みた虚飾が彼の思考を遮っていたが、それももはやない。

 一可は理解している。

 彼は依然、容疑者だ。玄司が提供する情報には制限があった。

 それでも、ひとつだけ、確かなことがあったのである。


(元家一寿……! あいつは、あの事件の日、晴美と会っている!)


 ならば、事情を知らないわけがないと、一可は断定する。

 そうしてしまえば、もういてもたってもいられなかった。

 即座に寝巻から着替えると、彼は部屋の襖を、蹴立て、廊下へと飛びだす。

 そして誰かに気付かれるかもしれないとか、そんなことは一切考えず、ずかずかと、ドスドスと音を立てて大股である場所へと直進していった。

 目的の場所へと至り、一可の瞳には激情が燃えた。

 障子をあけ放ち、その暗がりへと叫んだ。


「一寿ッ!」


 はたして――



「――おう。おれは、ここにいるぞ」



 闇の中で、それは答えた。

 元家一寿。

 正気を失っていたはずの彼が、嘲笑と侮蔑をまとって、座敷牢の中心に胡坐あぐらをかいて座っていた。



◎◎



「演技だったのか?」


 沸き立つ幾つもの感情をなんとか抑え込みながら、一可は目前の暗がりへと訊ねた。

 詰問と言ってもいいその声の厳しさに、しかし闇の中に浮かぶ二つの目玉はニタニタとひずみを生じさせながら、一可をもてあそぶように答える。


「演技? まさか! はさっきまで本当に、正気を失っていたさ! いや――正確には正気を食われていたのだけどなぁ」

「正気を、食われる?」

「おっと、いまさら意味が解らんなんて顔するなよ、毒気が抜かれちまう。それとも、まさか本当に、未だ、とうとう、ついぞ解らんまま、おまえはここに辿り着いたのか?」


 だったらとんだお笑い草だ、おまえは立派な道化だよ!


 そう言って、一寿は一可を嘲笑あざわらうのだった。

 ひとしきり、馬鹿に仕切ったように笑い続け、そうして彼は、一可に告げる。


「おまえは、――一可」

「なにが……おそすぎた……?」


 そう、遅すぎたんだと、一寿は笑う。

 嗤う。


「おれがこうなったのは自業自得さ! 爺様の言うことを聞かなかったせいだ、耳を貸さなかったせいだ。おれは今日まで、思う様にらちを開け、思うがままにすべてを踏み躙ってきた。だが、それだけ好き勝手に出来たおれにも、泣き所ってもんがあった。その結果がこのざまさ」

「……なにを言ってるか、俺にはさっぱり」

「解らんだろうなぁ! ああ、おまえには解んね―よ、近衞一可! 悪徳、暴虐、傲慢! そんなものとは微塵も縁がないおまえには、一生解らん感傷さ! だが実に簡単なことだ、生物にとって、雄にとってはこれ以上ない重要事だったのさ――そうだ、おれは愛していたのだ!」


 愛していた。

 己のすべてをつぎ込んでも惜しくないほどに。

 すべてを捨ててもよいほどにそれを愛していたのだと、一寿は語る。

 熱狂的に、狂騒的に声を張り上げる。

 しんとした闇の中に、夜のとばりの内側に、彼の言葉がこだまする。


「おまえには解らないんだ、近衞一可。おまえにだけは解らない。選ばれていたおまえに解らないし、選ばれたおまえは遅かった。だから俺が、この手でつかんだ、無理矢理にでも、おれのものにした」


 声のトーンを急激に落とし、ぶつぶつと呟き始める小太りな、少年時代の知人に、一可は恐れにも似た感情を抱き始めていた。

 やはり狂ったままなのではないかと、彼はそう考え始めていた。

 少なくとも、一寿が次の言葉を口にするまでは。



「おれが、久世悠莉を犯したんだ」



(――え?)


「犯した。あの日、美千代ばあさんが死ぬ前に。遠い昔、おのれの運命とやらに直面して泣き崩れるあいつを見て、おれの胸は高鳴った、張り裂けそうなほどにどす黒く、踊りださんほどに汚濁に塗れた。もっとだ、もっとみたかった、あの気丈な女が、いつも笑っているような奴が泣いている顔が見たかった。ずっとだ、おれはずっとあいつを求めていた。あのときだってそう条件を出したんだ、余所者を仲間に入れるのに、その対価におれのものになれと。そう言ったのに、あいつはなんと答えた思う? 『あなたことは好きでも嫌いでもないよ。でも、あたしは彼がいい。彼のほうがいいから、そんなの無意味だよ』 そう言ったんだぞ? おれの、この村でいちばん偉いおれの、おれを無意味と言い放ったんだあいつは! 侮辱だった、手ひどい侮辱だった! だから、いっそう欲しくなった! だから協力してやった。あいつと美千代ばあさんに手を貸して犯罪にも手を染めた! 欲しかった、むさぼりたかった、愛していた! だから――」


 おまえがこの村に戻る4か月も前に、おれは久世悠莉を犯したんだ――と。


 元家一寿は、口元を三日月のように吊り上げながら、そう語った。

 彼の瞳孔は不気味に収縮を繰り返し、その言葉は支離滅裂で、過去の幾つもの出来事を同列に語っていた。

 吹き付けるような狂気が、錯乱の果てにあるような壊れた感情が、雪崩を打って一可へと浴びせかけられ、叩きつけられていた。

 それ故に、一可は怯え、そして――


「すごかったぞ、本当にすごかった! ムリヤリにねじ込んだというのに肉は絡みついてくる! 血がぬめって動き出す――そうだ処女だった、処女をおれのものにした! 泣き叫びそうになりながら、だけれど健気に指を噛んで堪える、それでも悲鳴が漏れる、俺はいまにも達しそうだった! いや、何度も達した、何度味わっても飽きなかった、何度でも注ぎ込んでやった! あいつのすべてをおれのものにしたと思った! あの泣き顔、涙、甘露のように甘くトロけそうだったっ! 夢中だった! 首ったけだった、おれは悠莉を愛していた! こんなにも、こんなにも! ああ、そうだ、おれのほうがおまえより愛していたんだ近衞一可! ――!」

「か――一寿っ!」


 嗤笑ししょう

 怒号をあげる一可を前にして、しかし元家一寿は嗤い続ける。

 泥を煮立たせたようなクツクツという小さな嗤いが、やがて一可を侮辱する大きな嘲笑へと変化する。


「間違いなかったおれは確信していた、久世悠莉はおれのを孕んだ、屈服しおれのものとなった! 間違いなかった、間違いのない、はずだった……」


 高笑いに狂う小太りの青年の声が、急激に萎みだす。

 その居丈高だった声音に、幾つもの怯え、震え、おそれが混じりはじめる。


「だが、だが違った、おれはなにも解っていなかった、おれは生まれながらの勝者だ、だから恐怖を知らなかった。元家が記録し続けるものだと知らなかった。。近衞、近衞一可」


 暗がりのなか、それはゆっくりと立ち上がる。

 その瞳に、胡乱うろんな色彩を乗せて。

 その声に、剣呑けんのんな憎悪を乗せて。

 一寿は、一可に告げる。


「おれは、おまえが羨ましかった。望まないくせに、すべてを得られるおまえが、選ばれたおまえが。だから――」


 彼は、告げた。

 これ以上なく、絶望的な真実を。


「おまえが愛したものを全て奪った。おまえの恋人を、おれが犯した。教えてやるよ、近衞一可。おまえの両親と、そしておまえの恋人を、木戸晴美を殺したのは」



 ――



 闇が、嗤う。

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