第九幕 玖契村と血眸さまの謎と元家一寿と九つの契り―――

23 悪夢と玖契村と元家当主の意外な歓待

「状況は大きく動きました。これじゃあ、おちおちと外堀を埋めている暇はありません。地元の警察も協力的ではないですし、一度斬り込むのも手だと思いますね、あたしは。一応、切るべき札も手に入れたわけですから」


 朝食の席で、三条玄司はそう提案した。

 船越紀一郎は沈黙をもって肯定とし、近衞一可は、その判断ができる精神状態ではなかった。


「……決まりですねぇ。それじゃあこのまま、玖契村に乗り込むとしましょうか」


 玄司の言葉に、玖契村という言葉に、一可がピクリと、背を震わせる――



◎◎



 三人を乗せたバンは、山道を進んでいく。

 晴天が続いていた道は、特にぬかるむでもなく、踏み固められ、薄いわだちが時折車体をはねさせる程度だった。

 そんな車内で揺れに身を任せながら、一可は頭を抱えたい思いで懊悩おうのうしていた。

 昨夜、彼は錯乱の一歩手前にあった。

 それは、猫の鳴き声とともに現れた、幻覚とも実物ともつかない悪夢のような光景によるものだった。


(あれは、あれはなんだったんだ、あれは、いったい……)


 一可は繰り返し、そうしなければ精神が崩壊してしまうとでもいうかのように、その光景を何度も思い返す。

 彼は眠っていた。

 車の中で一度寝てしまったものの、それで疲れが取れるわけもなく、布団に入ってすぐ、一可の意識は闇に落ちた。

 それを現実に引き戻したのは、奇妙なが鼻を突いたためだった。

 どこか酸っぱいような、えたような、それでいて、鉄錆びのような臭い。

 それが、寝床一杯に満ちていたのだ。

 寝ぼけ眼を擦りながら起き上ろうとすると、身体がいまいちいうことを聞かない。

 視線だけを隣に向ければ、左にも右にも、玄司や紀一郎の姿がない。

 困惑していると、臭いが強くなる。

 そこで彼は、足元でなにかが蠢いていることに気が付いた。

 もぞり、もぞりと、なにかが這いずっている。

 もぞり、もぞり。

 一可が注視していると、闇の中に〝なに〟か、赤茶けたものが見えた。

 それはひどく小さく、しかし動いている。

 一可の眼差しに気が付いたのか、その〝なにか〟は、だんだんと近づいてくる。

 足元から、のそり、もぞりと。

 ナメクジのような遅さで、猿のような動きで。

 足首を、ふくらはぎを、太ももを〝それ〟は昇り、そうして一可は、〝それ〟が腹までやってきたとき、慄きから生唾を飲むことになった。


(赤ん坊だった。小さな、目もあいていない、しわくちゃな裸の猿みたいな、そんな小さいものが、俺の腹を這い上がって。そして、そして――)


 カタカタカタカタ!

 機械仕掛けがそうするように、突然一可の首筋まで凄まじい速度で這い上がった〝それ〟は、カッと目を見開く。


 一可の鼻先に、錆びの匂いが――胎血の臭いがムワリと、広がった。


 ぽっかりと開いた空っぽの眼窩。

 そこから、おびただしい量の血が零れ、たぱ、たぱぱ――っと、涙となって一可の顔に降り注ぐ。赤ん坊――胎児は、盲目だった。

 その虚ろな眼窩は、真っ赤に染まっていたのだ。

 一可は、今度こそ絶叫を上げたのだった。


(そうして、船越たちが来てくれるまで、俺は怯えて震えていたんだ。怖かった。赤ん坊が、じゃない。あれが――


 彼は、直感的に悟っていた。

 その赤ん坊に、彼の知る誰かの面影があったことに。

 その胎児に、誰かの影があったことに。


(あれは、幻かも知れない。疲れた俺の脳髄がみせた、幻影かも知れない。ただの悪夢かも知れない。その証拠に、俺の顔に血なんてついていなかったし、。だけど)


 彼にはそれが、警告であるように思えたのだ。

 まるで、これ以上、血眸さまの謎に踏み込んではいけないと、〝それ〟が警告しているように思えてならなかったのだ。


(でも、もう今更止まれない。晴美は殺された。ゆーりはいなくなった。このままじゃ、俺は日常に帰れない。帰ったとしても、たぶん狂人として一生過ごすことになる)


 だから、なんとしても先に進まなくてはいけないと。

 このどうしようもない、暗澹たる日々を打破しなければならないと、近衞一可は、強く、強く思うのだった。


「さぁて、そろそろ森を抜けますよ。みなさん、心構えは十分ですかぁ?」


 どこか楽しむような調子で、玄司がそう問いかけた。

 一可と紀一郎は、無言で頷く。

 山間の寒村が、その窪地ごと姿を、現わそうとしていた――



◎◎



 玖契村は、山間やまあいのなか、不自然に存在する窪地にひっそりとある寒村だ。

 300戸に満たない世帯数の、そのほとんどがサトイモや飼料作物を育て、同時に小規模な畜産、酪農、林業などで生計を立てている。

 ひとつの特徴として、なぜか玖契村では動植物がよく育ち、生育が容易であるため、住民たちが日々を暮す程度の地産地消が可能となっている。

 また、四方を囲む山々では豊富な資源を得ることができ、人工植林された杉山では杉材が、その他の山ではキノコや木の実、イノシシなどの狩猟鳥獣を得ることができる。

 村には三つの有力な家が存在し、それぞれ久世、近衞、元家を名乗り、なんらかの大きな決断の際は、この三家の合議によって意識の統一を図ってきたという歴史が存在する。

 なかでも元家は実質的な取りまとめ役であり、玖契村のなかでも特に強い権力を有していた。

 その、元家の屋敷の前に、いま、一可たちは立っているのだった。

 一可は、近衞の家を訪ねなかった。とても叔父や家人たちと顔を合わせられる気分ではなかったし、玄司も紀一郎も、彼が実家を訪ねることをよしとはしなかった。

 なにより優先すべきことがほかにあったからだ。

 彼の揺れる視線の先には、古式ゆかしい大きな屋敷が建っている。

 えてして田舎の屋敷とは大きいものだが、この家は近衞家の三倍はあった。

 幼い頃にあいさつに来た一可の記憶によれば、中庭には枯山水があり、水琴窟すいきんくつや茶室まで完備されている。

 そんな屋敷の門を、代表して玄司が叩いた。


「ごめんくださいねぇ。あたしは三条玄司といいまして、県警の捜査第一課の刑事でしてね。本日はとある刑事事件、平たくいえば殺人事件の調査で、まかりこした次第なんですが。ええ、ええ、こちらのご子息であらされる、元家一寿氏にお会いしたいわけでして――」


 ぺらぺらと立て板に水を流すような勢いで、相手に有無も言わせずこちらの用件を伝える玄司を、一可は、さすがは刑事だなと思いながら眺めていた。

 やり取りはしばらく続き、少々あって、門が開いた。

 立派な飛び石のある庭の先、屋敷の戸が開き、ひとりの老人が姿を見せた。

 背は低く、しかし腰が曲がっている訳ではない。

 表情は覇気に満ち、そのたくわえられた白い髭は見事なもので、一可は漢詩に聞く李白のようだとすら思った。

 杖を突きながら現れたその老人は、一可たち一同を順番に、じろりとねめつける。

 玄司はポーカースマイルを浮かべ、紀一郎は眼鏡の奥の双眸を険しくし、そして一可は、その老人のギョロリとした目玉に睨みつけられ、身がすくむ思いを味わっていた。

 しかし、彼のそんな気持ちとは別に、一可の姿を認めた老人は、途端に相合を崩し、破顔する。

 何事かと面食らった一可に、彼は、胸のすくような笑みとともに、こう言葉を投げかけた。


「ようかえっちきたねぇ、近衞の。はこの日を、一日千秋の思いで待っとったわ! さ、中に入らんね、歓迎の準備は、とうにできとるけん!」


 連れのふたりも、遠慮せんと中に入り。

 そう言って彼――元家家当主にして、美千代きいま村の最年長者である、元家祢津朗ねづろうは、唖然とする一可たちを、上機嫌に屋敷の中へと招き入れたのだった。

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