22 忍び寄る猫の声と、赤子の――

「まあまあ、これからさき、いつ飲めなくなっても不思議じゃあ、ありませんからねぇ。おふたがたもどうです? ほら、あたしは結構いける口なんですよ。え? なんだったら小話を披露しましょうか? では僭越ながら――アルファベットの中で一人だけ殺された者がいたんですよ。しかしこれが誰か解らない。仕方がないので警察を呼んだらこれがすぐに解決した。なぜかって? 『K《ケー》、サツ』! どうですか片腹大激痛でしょう?」


 上機嫌で一人喋り倒し、浴衣に着替えた玄司は盃を重ねていた。すでに数本の徳利が空いている。

 酒の肴は、名産の牛肉を使ったすき焼きと、イサキの刺身と、イトヨリダイの塩焼きで、他の二名と違い彼は上機嫌だった。

 一方で、一可は食欲がないのか、すまし汁に手を付けただけで、あとはふさぎ込んでしまっていた。

 そんなふたりの相手をしながら、紀一郎は内心でため息をついていた。

 彼としては、あまり一可にふさぎ込んでいてほしくなかった。かといって、玄司のように無意味な振る舞いをしてほしい訳でもない。

 一可が風呂に入っている間に、いろいろとある人物と連絡を取り考察を重ねはしたものの、明るい話題は提供できることもなく、しかたなく、少しでも憂さ晴らしになればと、紀一郎は彼にアルコールをすすめる。

 だが、もとよりそれほど酒が好きではない一可であるから、手を出すことはなかった。

 紀一郎は、それ以上の無理強いは出来なかった。

 酒宴はすぐに終わり、明日のことも勘案して、一同は早々に寝床についた。

 しかし、紀一郎はすぐには眠れなかった。

 しんと静まり返った旅館の中にしみこむようにして溜まっている闇の中で、明晰な頭をもって思考を続ける。

 この旅館を調べ、予約したのは紀一郎だった。もとよりさびれた山奥の旅館、飛び入りも歓迎された。

 夜の静けさの中には、他の部屋で繰り広げられているらしい宴会の声すら響かない。

 玖契村のルーツ。

 血眸さまの伝承ともいえない伝承。

 九つの契りという謎。

 そして、元家という、急浮上してきた人物の名。

 重要だと彼が思ういくつものことを考えていると、あっという間に時は過ぎて去っていく。

 すっかり夜も更けてきたころ、ようやく紀一郎はうとうととし始めた。

 静かに薄れていく意識が、眠りの淵に立ったころ、それは、どこからか聴こえ始めた。


 ……なーご。


 とても小さく、かすれたような鳴き声。

 しかし、一可から話を聞いていた紀一郎は即座に気が付いた。


(――猫の、鳴き声か)


 スッと目を開け、紀一郎は枕元の眼鏡を引き寄せ、かける。

 布団を捲り、起き上がって、音も立てずにふすまを開けて、廊下へと出る。

 その間、彼は細心の注意を払い気配を殺していたつもりだったが、


「紀一郎くんも聴きましたか……」


 耳元でそう呟かれ、びくりと振り向くことになった。

 そこには、表情を厳しくし、浴衣をただしている三条玄司の姿があった。この初老の刑事は、刑事らしくまったくの無音で紀一郎の背後をとったのだ。


「あなたも、聴こえたのか」

「ええ、ありゃあ、間違いなく猫の声でしょう。どうです? 夜の旅館探索というのも、乙なもんじゃありませんか?」

「…………」


 その問いかけに溜め息で返答しつつ、紀一郎は玄司と連れ立って廊下を歩く。

 暗い、夜の闇に包まれた廊下が、彼らが進むたび、ギシリ、ギシリと音を立てて軋む。


うぐいす張(ば)りですかねぇ」

「老朽化だ、たぶん」


 そうやって軽口を叩きながら、彼らは進む。

 非常灯だけが燈る廊下を、随分と先まで来たときのことだった。


 ちりん、ちりん……と。


 その音は、響いた。

 ふたりが敏感に振り向けば、さっと白い影が中庭の方へと逃げていく。


(白い猫だ!)


 間違いないと、紀一郎は思った。


「追いますか?」

「無論!」


 短く打ち合わせをして、二人が駆けだそうとした刹那――


 建物全体を揺るがすような、恐怖に塗れた大きな悲鳴が、旅館の内部に響き渡った。


 紀一郎と玄司は顔を見合わせると、バッと身を翻し、来た道を大急ぎで駆け戻る。

 ふたりはその悲鳴に、その声の主に覚えがあった。

 あてがわれた部屋に飛び込むと、二色灯の中で誰かが頭を抱えてうずくまっていた。

 玄司が間髪入れず灯りをつける。

 その影が照らしだされる。

 うずくまり、がたがたと恐怖に震えているのは、他の誰でもない紀一郎の親友だった。


「近衞!」


 その名を呼んで、紀一郎が駆け寄る。

 玄司は油断なく、部屋の隅々を調べ始める。

 一可の俯いた顔を覗きこみ、紀一郎は思わず身を引いた。

 彼の視線はまったく焦点があっておらず、あちこちに飛び回り、その口元からはうわごとのように絶えずある単語が何度も何度も、何度も何度も何度も、繰り返し吐き出され続けていたからだ。


「赤ちゃんが、赤ちゃんが、赤ちゃんが、赤ちゃんが赤ちゃんが、赤ちゃんが、赤、赤かかかか、赤ああか、赤ちゃんが――」


 ピリリリリリリリリリリリリ……!


 突如、鳴り響いた電子音。

 玄司が自らの電話に飛びつき、慌てて回線を疎通にする。

 紀一郎は、端末から怒鳴り声のように飛びだしてくるその声を、確かに聴いた。


「ゲンさん! 木戸晴美と事件当日接触を図っていた人物が判明しました! こいつは、相当怪しいですよ!」

「真くんかい? で、そいつの名前は?」

「元家です」


 有島真が、電話の向こう側で叫んだ。


寿。たぶんこいつが――真犯人ホンボシです!」

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