第七幕 警察と老刑事と決意の――
17 警察と取調べと絶望
「
「…………」
こじんまりとした取調室の、鉄格子がはめられた窓がから入る西日に眼を焼かれながら、一可は茫洋と、目の前の刑事が口にする〝事件のあらまし〟というものを聴いていた。
あまり空調の利いていない、じっとりとした熱気が充ちる室内には、一可と、聴取を担当する目付きの厳しい女性刑事――
一可はただ、ぼんやりと真の言い聞かせるような、噛んで含めるような言葉を聞いている。
「ドアがこじ開けられた形跡はない。ピッキングされた形跡も、ありえないことだが窓や隣室からの侵入という形跡も全くない。密室という言葉はミステリーの世界だけのものだが、これははっきりいって誰かが侵入した痕跡のない殺人事件だ。そう、あなたは除いては、です」
真は躊躇のない口調でそう断言する。だが、一可はなにを言われているのか解らない。何気なく視線を開下げると、自分の腰に縄が巻かれ、腰掛けているパイプ椅子に繋がれていることに気が付いた。
(ああ……俺、容疑者なのか……)
今更のように彼は、それを悟った。
「……刑事さん」
「なんでしょうか、近衞一可さん」
「どうして、晴美は殺されたんでしょうか」
彼の問いかけに、真は答えなかった。
一可は、構わずに続ける。
「誰が、晴美を殺したんでしょうか。どうして、あんなひどいことを。あんな、あんな……ぅ、うう」
言葉の最後は、嗚咽混じりになっていた。
ボロボロに疲弊した一可の精神は、危うい均衡の上に昨夜まで成り立っていたが、しかし晴美の死体を見つけ、その死をどうしようもないほど痛感し、あまつさえ自分と彼女の子どもの死まで突き付けられて、もはや進退窮まった所まで来てしまっていた。
それでも、辛うじて彼は、その精神を存続させている。
発狂には至っていない。
(麻痺しているのかもしれない)
泣きながら、矛盾のように一可はそうも思う。或いは、と。
(理不尽に、怒っているのかもしれない。この、ひどく胸の奥が痛む気持ちは、それなのかもしれない。怒りが、まだ俺を正気で、或いは狂っても生きさせているのかもしれない)
久世悠莉が姿を消し、木戸晴美が殺される。
その大切な二人の人間の喪失という極限状況が、しかし一可を現実に縛り付けていた。
悲劇が眼前にあるからこそ、彼は目を背けられないでいるのだった。
「刑事さん、晴美の死因は、なんですか。あいつは、苦しんで死んだんですか、それとも……」
「…………残念ながら、前者です」
真が、ちらりと書記の老人と目配せをし、頷き合ってから、眉根を寄せ口にする。
「死因は窒息。絞殺です。首を絞められて、殺されたものだと思われます」
「絞殺……」
「こう、素手で乱雑に首を絞めた……所感ですが憎悪に任せて殺したような手際で、手慣れた犯行ではないと感じました。ガイシャは相当抵抗したのでしょう、頸椎は骨折していましたし、動脈を圧迫されての安らかな死ではなく、喉を、気管支を潰されての、苦しい死であったと思われます。顔面の殴打痕は、それ以前のもの。そして、全身の刺し傷と、腹部のものは」
殺されてから行われたものであろうと、その女刑事は語った。明らかに容疑者に語り聞かせる内容ではなく、下手をすれば彼女の落ち度ととられても不思議ではなかったが、一可にはそんなことはどうでもよかった。そもそもそこまで思考は及ばなかった。
一可はゆっくりと瞑目し、細く息を吐き出す。
机を、殴りつけた。
「ふざけるな! なんで、誰がそんなことを!? あいつが、どうして殺されなきゃいけないんだ、あいつは、あいつは!」
「落ち着いてください、近衞さん。現在交友関係は調査中ですが、このようなケースの場合有力な怨恨については、いまのところなんら該当するものがありません」
「当たり前だ! あいつは、その性格を勘違いはされたって、人に憎まれるような奴じゃなかった!」
「ええ、ですので私たちとしては――」
あなたが殺したのではないかと、睨んでいます。
有島真は、淡々と、そう告げて見せた。
一可は、絶句する。
その言葉を聞いた瞬間から、一可の脳髄は機能を止めた。彼女の次の言葉で、さらにどうしようもなくなった。
「ガイシャが妊娠していたことを知ったあなたは――4か月目だったそうですね?――それが理由で彼女を殺した。子供が欲しくなかった、結婚話を切りだされて鬱陶しくなった、理由は定かではありませんが、そういうことじゃあ、ないですか? だから、殺した。違いますか?」
違う! と。
そう一可は叫びたかった。
晴美が妊娠していたことを自分は知らなかったと、潔白を叫びたかった。
だけれど、もはやそんな気力さえわいては来なかった。
先程の親切すぎる説明も、一可にぼろを出させるための遠回りな誘導だと、気付けさえしなかった。
彼はがっくりとパイプ椅子にもたれかかると、そのまま目を閉じた。
閉じた瞼の下から、熱い液体がずっと滴り落ちていくのを、一可は感じていた。
真の追及はその後も続いたが、彼はもはや、一切口を開かなかった。
ただただ、深い絶望が、一可の胸中を支配していたのだった。
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