第七幕 警察と老刑事と決意の――

17 警察と取調べと絶望

被害者ガイシャのマンションには監視カメラが備え付けられていた。また、警備会社による監視も行われていた。それによれば、21時37分、ガイシャが帰宅。その間にガイシャの自宅に出入りしたものは、前日から早朝まで入り浸っていた近衞一可、あなたしかいない」

「…………」


 こじんまりとした取調室の、鉄格子がはめられた窓がから入る西日に眼を焼かれながら、一可は茫洋と、目の前の刑事が口にする〝事件のあらまし〟というものを聴いていた。

 あまり空調の利いていない、じっとりとした熱気が充ちる室内には、一可と、聴取を担当する目付きの厳しい女性刑事――有島ありしままことと、彼らふたりの発言をメモする初老の書記係がいるだけだった。

 一可はただ、ぼんやりと真の言い聞かせるような、噛んで含めるような言葉を聞いている。


「ドアがこじ開けられた形跡はない。ピッキングされた形跡も、ありえないことだが窓や隣室からの侵入という形跡も全くない。密室という言葉はミステリーの世界だけのものだが、これははっきりいって誰かが侵入した痕跡のない殺人事件だ。そう、あなたは除いては、です」


 真は躊躇のない口調でそう断言する。だが、一可はなにを言われているのか解らない。何気なく視線を開下げると、自分の腰に縄が巻かれ、腰掛けているパイプ椅子に繋がれていることに気が付いた。


(ああ……俺、容疑者なのか……)


 今更のように彼は、それを悟った。


「……刑事さん」

「なんでしょうか、近衞一可さん」

「どうして、晴美は殺されたんでしょうか」


 彼の問いかけに、真は答えなかった。

 一可は、構わずに続ける。


「誰が、晴美を殺したんでしょうか。どうして、あんなひどいことを。あんな、あんな……ぅ、うう」


 言葉の最後は、嗚咽混じりになっていた。

 ボロボロに疲弊した一可の精神は、危うい均衡の上に昨夜まで成り立っていたが、しかし晴美の死体を見つけ、その死をどうしようもないほど痛感し、あまつさえ自分と彼女の子どもの死まで突き付けられて、もはや進退窮まった所まで来てしまっていた。

 それでも、辛うじて彼は、その精神を存続させている。

 発狂には至っていない。


(麻痺しているのかもしれない)


 泣きながら、矛盾のように一可はそうも思う。或いは、と。


(理不尽に、怒っているのかもしれない。この、ひどく胸の奥が痛む気持ちは、それなのかもしれない。怒りが、まだ俺を正気で、或いは狂っても生きさせているのかもしれない)


 久世悠莉が姿を消し、木戸晴美が殺される。

 その大切な二人の人間の喪失という極限状況が、しかし一可を現実に縛り付けていた。

 悲劇が眼前にあるからこそ、彼は目を背けられないでいるのだった。


「刑事さん、晴美の死因は、なんですか。あいつは、苦しんで死んだんですか、それとも……」

「…………残念ながら、前者です」


 真が、ちらりと書記の老人と目配せをし、頷き合ってから、眉根を寄せ口にする。


「死因は窒息。絞殺です。首を絞められて、殺されたものだと思われます」

「絞殺……」

「こう、素手で乱雑に首を絞めた……所感ですが憎悪に任せて殺したような手際で、手慣れた犯行ではないと感じました。ガイシャは相当抵抗したのでしょう、頸椎は骨折していましたし、動脈を圧迫されての安らかな死ではなく、喉を、気管支を潰されての、苦しい死であったと思われます。顔面の殴打痕は、それ以前のもの。そして、全身の刺し傷と、腹部のものは」


 殺されてから行われたものであろうと、その女刑事は語った。明らかに容疑者に語り聞かせる内容ではなく、下手をすれば彼女の落ち度ととられても不思議ではなかったが、一可にはそんなことはどうでもよかった。そもそもそこまで思考は及ばなかった。

 一可はゆっくりと瞑目し、細く息を吐き出す。

 机を、殴りつけた。


「ふざけるな! なんで、誰がそんなことを!? あいつが、どうして殺されなきゃいけないんだ、あいつは、あいつは!」

「落ち着いてください、近衞さん。現在交友関係は調査中ですが、このようなケースの場合有力な怨恨については、いまのところなんら該当するものがありません」

「当たり前だ! あいつは、その性格を勘違いはされたって、人に憎まれるような奴じゃなかった!」

「ええ、ですので私たちとしては――」


 あなたが殺したのではないかと、睨んでいます。


 有島真は、淡々と、そう告げて見せた。

 一可は、絶句する。

 その言葉を聞いた瞬間から、一可の脳髄は機能を止めた。彼女の次の言葉で、さらにどうしようもなくなった。


「ガイシャが妊娠していたことを知ったあなたは――4か月目だったそうですね?――それが理由で彼女を殺した。子供が欲しくなかった、結婚話を切りだされて鬱陶しくなった、理由は定かではありませんが、そういうことじゃあ、ないですか? だから、殺した。違いますか?」


 違う! と。

 そう一可は叫びたかった。

 晴美が妊娠していたことを自分は知らなかったと、潔白を叫びたかった。

 だけれど、もはやそんな気力さえわいては来なかった。

 先程の親切すぎる説明も、一可にぼろを出させるための遠回りな誘導だと、気付けさえしなかった。

 彼はがっくりとパイプ椅子にもたれかかると、そのまま目を閉じた。

 閉じた瞼の下から、熱い液体がずっと滴り落ちていくのを、一可は感じていた。

 真の追及はその後も続いたが、彼はもはや、一切口を開かなかった。

 ただただ、深い絶望が、一可の胸中を支配していたのだった。

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