16 告げられなかった言葉と、最期の――

 否定して、否定して、否定して。

 否定して否定して否定して否定して。

 否定に否定を重ね、否定し尽くし重ねて否定し、なおも否定し――それでも近衞一可は、やがてすべてを認めるしかなくなった。

 認めた瞬間、現実逃避はすべて、雪花の如く脆くも崩れ去る。

 くすんだ赤色。

 暗く、昏い、腐敗したその赤色を。



 彼の目の前で――木戸晴美が、死んでいた。



 殴打に殴打が重ねられたのか、変形したその顔は紫に腫れ上がり、鼻は折れ、歯は砕け、目玉は潰れ。

 どれがトドメともわからない全身の刺し傷、切り傷。

 喉元から首筋に掛けては、変色した締め上げられた手の跡が残り、辛うじて縊り殺されたのだということがわかる。

 だけれど、そんなことよりも、なによりも。

 一可の精神を染め上げるのは、その瞳に焼き付くのは。

 こぼれ落ちる、内臓の暗い赤。

 都会にだけある、うだるような夜の闇の中で、時間をかけて熟し腐り落ちた肉と血の色。

 血のいろどり。

 晴美の胎肚はらは暴かれていた。

 引き裂かれ、解体され、曝され、整然と並べられて、その腹の中身が、胎の中身がすべて、その場に並んでいるのだった。

 血の海にぽっかりと、肉片の中にぽっかりと、切り開かれた〝それ〟が、浮かんでいるのだった。


 子宮だった。


 それを認識した瞬間、一可は嘔吐した。

 木戸晴美に呼び出され、向かった彼女の部屋で、予定通りの夜22時過ぎ。

 開いていた扉に不審に思い、内部に入った彼が目にしたのは、その阿鼻叫喚の地獄であり。

 蔓延する濃密な、ムワリとかおる熱気と腐臭、悪臭、なによりも死臭に。

 酸鼻を極める光景に、近衞一可は堪えられなかった。

 吐いて、吐いて、もどして。

 胃の腑の中身をすべて吐き出して、それでも足りず、からっぽの臓腑が裏返るほど吐き続けて、そんなものではまったくたりずに彼は吐瀉物としゃぶつを撒き散らかし続けた。

 どのくらいそうしていたか。

 一可には解らなかった。

 ただ、ヒビ割れて砕けた心が、虚無的に、義務的に電話を手に取っていた。

 凄惨極まりない室内に、コール音が響き、相手がとる。


『紀一郎だ。どうした、近衞?』

「……晴美が、殺された」

『なに?』

「警察を、救急車を……わからない……代わりに……呼んでくれ」

『おい! 近衞! なにがあ――』


 それ以上の会話は、一可がスマートホンを取り落したことで続くことはなかった。

 紀一郎は電話の向う側でなおも一可を呼び続けていたが、もはや彼の精神がそちらを向くことはなかった。

 一可は、その場に崩れ落ち、吐瀉物の海に顔から倒れ込み、そうして同じように血の海の中に沈む恋人の姿を見つめながら、ぽつりと、呟いた。


「なんで、もっとはやく」


 ゆっくりと、彼の視線が上がる。

 壁に、なにかが縫い留められていた。

 包丁が、なにか小さな赤黒いモノを貫いて、真っ白な壁に、縫いつけていた。


「教えてっ、くれなかったんだよっ……!!!」


 一可は、歯噛みをして、泣きながら、叫んだ。


「晴美! おまえは……っ」


 が、一可には初めなんだか解らなかった。いつまでも解らないままでいたかったと、彼は切実に願った。

 壁に飾られた、哀れな物体。

 物言わぬ遺骸。

 それは、木戸晴美が近衞一可に伝えられなかった、愛情の結晶。

 ムリヤリに産み落とされた命が、尊厳を蹂躙され堕胎された可能性が、――無慈悲にも、息の根を止められていた。


「なーご」


 失意のどん底で、一可は猫の鳴き声を聞いた。

 聞いた気がした。

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