15 赤い眸の悪夢とぬくもりと電話
(泣いている……誰かが、か細い声で、泣いている……ひどく切ない、涙の落ちる音がいくつも聴こえる……)
ぼんやりとした白い世界の中に立ち尽くす、一可の耳にその、すすり泣く声は届いていた。
どこか聞き覚えがあるようで、或いはまったく未知のものであるようなその嗚咽は、一可の鼓膜を蠱惑的にふるわせ、彼は引き寄せられるようにその声の方へと歩んでいってしまう。
まるで、人魚の歌声を聴いてしまった船乗りのように、一可は夢遊病患者のような足取りで進む。
どこを歩いているのか、一可にはまるっきり見当がつかない。
雲の上を歩いてるように頼りなく、泥沼を進んでいるかのようにその足取りはとても重い。
それでも一可は歩き続ける。
白い闇のなか、もやの中を歩いていくと、やがてなにかが白抜きの世界に像を結び始めた。
漂白されたように白い世界の、その一部が、くすんだように
それが一可には、泣いている少女のように見えた。
見覚えのある、少女だった。
(あれは、あのときの……)
一可の脳裏をよぎるのは、子どもの頃の光景。
行方不明になっていた、ひとりの少女を助けたある日の出来事。
山の中に打ち捨てられたように存在した廃神社の、その境内でふたりが秘密だと交わした約束。
そのときに見た、神々しい――
「ゆーり……?」
一可は、その名を呼んでいた。
認識すると、すぐにそれはそうとしか見えなくなった。実像が結実した。
少女は、幼い日の久世悠莉の姿をしていた。
ボロボロで、薄汚れていて、泣いている。
それが、一可にはとても苦しくて、哀しくて、彼は咄嗟に、その少女へと駆け寄ってしまった。
「ゆーり!」
大声で叫ぶように名前を呼んで、自分の方を向かせようと、なにが起きたのか聞き出そうと、その細い肩に手をかけた――その刹那だった。
不意に、少女が貌をあげる。
一可の瞳を覗きこむのは、細く歪んだ、
右の眸だけが赤い、少女のようで少女ではない、黒い和服を着たなにかが、一可を見詰めて、にたぁっと――
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
絶叫を上げて、一可は飛び起きる。
悍ましい情景を掻き消そうと、滅茶苦茶に手足を振り回す。
叫んで、
「――くん」
暴れて、
「――衞くん」
錯乱して。
「近衞くん!」
強く、名前を呼ばれて正気に返る。
芯の通った声に促され、すべてを否定するかのように堅く瞑っていた眼を、恐々と開けば、そこに、ひとりの女性が心配そうな眼差しで立っている。
それはネグリジェ姿の、木戸晴美で。
「――――ぁ」
眩い光が、一可の瞳に差し込んだ。
眼を細める。
カーテンの隙間から差し込む、朝の光だった。
そうしてようやく。
ようやく一可は、自分の状況を把握した。
彼がいるのは、晴美のマンション、その寝室だった。
「……晴美?」
「なんて情けのない声を出しているのよ。そう、私。あなたの交際相手、木戸晴美よ」
「……ぁぁ」
一可は、声にならない声を絞り出すようにして吐き出し、すべてを抱え込むように両手で顔を覆った。
「だいじょうぶ? ひどく、
「……ああ。まったくだいじょうぶ……じゃない」
そっと肩に手を置いてくる晴美に答えながら、一可はなんとか顔を上げる。
赤い眸。
『――今度は逃げられないよ、いっちゃん?』
そこにいたのは、右目だけが血のように赤い――久世悠莉だった。
一可は、再び絶叫を上げた。
◎◎
正しく目を覚ましたとき、一可は自分の部屋にいた。
太陽は空高く昇っていた。
悪夢を二度見たのだと彼が理解したのは、木戸晴美と一夜を過ごしたという事実を思い出してからだった。
朝食をともにとった彼らは、晴美が出社するために別れ、一可はもう一日の猶予を貰って、自宅へと戻っていたのだった。
(あれから、俺は
夢というのなら、どこからどこまでが夢であるのか解らないと、一可は思う。
久世悠莉が存在しなくなってしまったことも、彼にはまるで夢であるかのように思えた。
(そして、昨日の夜に見た、あのゆーりも)
赤い眼差しの彼女を思い出し、ブルリと一可は震える。
恐怖と、歴然たる違和感が彼に鳥肌を浮かべさせていた。
(あのゆーりは、まるでバケモノみたいだった。飢えたけだもののような、そんな目付きをしていた。俺の知っているゆーりは、そんな顔は、しない)
しかし、もし仮にとも、一可は考える。
赤い目の久世悠莉が、実在するのだとしたら、それは彼女の不在が覆ることになる。
何らかの怪我を負て、目は充血していただけなのかもしれない。
自分を頼ってやってきて、すれ違ったのかもしれないと、一可は希望的な憶測を無理矢理に頭に浮かべる。
その妄想のような空想を事実だと思い込みたくて、一可は近衞の本家――そこにまだいるはずの、小坂柊人へと電話をかけた。
短いコール音の後、電話が疎通になる。
『――おう、一可か。なんだ、おいに用か?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、相も変わらない柊人の声だった、それに一可は僅かに安堵し、同時に失意を覚えながら村にいたあいだ幾度となく繰り返いした問いを、一抹の希望と共に投げる。
「ああ、叔父さん、ひとつ訊きたいんだけど、ゆーりは」
『……まだそんなこと言ってるのか? 一度、病院に行くか? 久世の家に悠莉なんて娘はいない。いたらとっくに、元家の息子の妻になっているさ』
「元家? 元家って言うと、元家一寿か? あいつ、まだ結婚してないのか? あの暴君が?」
『ああ、一寿の坊は懸想してな、だから……あ?』
そこで、柊人は不思議そうな声を上げた。
『懸想? 懸想って、誰にだ? あの下衆で独裁者のようなドラ息子が、誰に……』
考え込むようにして、ぶつぶつと呟き、やがて柊人は押し黙る。
不穏なものを感じ、一可は彼の名前を呼ぶ。
「叔父さん? どうしたんだ、柊人叔父さん?」
『そんなことが、ありえるのか?』
「え?」
『いや――血眸さまに認められたのなら、それもありえる。
(……? なにを言ってるんだ、叔父さんは? 血まなこって、それは伝説上のバケモノのことなんじゃ……)
「叔父さん?」
『すまん、一可。ちょっと急用が出来た。夜にでも掛け直してくれ』
「え、ちょ」
『じゃあな』
プツリと、通話はそのまま途切れてしまった。
一可は「なんだよ……」とふてくされたように呟きながら、スマートホンを投げ捨て、無気力にベッドに突っ伏す。
解らないこと、どうしようもないことがあまりに多く、それが彼を、虚脱へと追いやりつつあった。
投げやりに、なっていたのである。
(もう、どうでもいい、か……)
憂鬱な気分のまま、そのまま眠ってしまおうと意識を手放しかけたところで、一可のスマートホンが、着信を告げた。
見遣ると、アナウンスされているのは木戸晴美の番号で。
「――はい、もしもし。どうしたんだ、晴美?」
『……近衞くん、あの、あのね』
いま仕事に打ち込んでいるはずの晴美は、しかしどこか弱々しい、少し困ったような声で、一可の名前を呼んで、こう言った。
『夜に、逢いたいわ……大切な話があるの。いまあなたに言わないと、取り返しがつかなくなることがあるの。だからもう一度……私の家に、来て』
それが、その悲痛な呼びかけが。
一可が聴くことになる、晴美の最後の言葉であると、彼にはまだ、知る由もなかった。
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