第六幕 告げられない事実と赤い眸と最期の――
14 猫と香水と告げられない事実
近衞一可と木戸晴美は、白く清潔な座卓を隔て、向かい合い座っていた。
一可は視線をジッと下げて、出された冷たいジャスミンティーのコップを掴んでいる。
そんな彼を、晴美はため息でも吐きたそうな眼差しで、もうかれこれ一時間ほど見詰めているのだった。
(なにを考えているのかしら、こいつは)
晴美は、口元にジャスミンティーを運びながら考える。
会いたいと言い出したのは自分だったが、しかし、飛ぶような勢いでやってきて、そうしてそれから一言も口を利かない一可には、さすがの晴美も呆れを隠せずにいる。
円熟した夫婦関係ならばそういうこともあるだろうがと彼女は考えるが、自分たちがまだ恋人同士でしかないことを
(それ以前に、あの怯え方は尋常ではない。こいつ、なにかあったな?)
どんな愚鈍な人間でも、そのぐらいは察せられるだろうと、晴美は一可にわからぬよう、いよいよ堪えきれなくなったため息をついた。
事実、一可の内心は恐怖と
「…………」
強めに淹れすぎたお茶に顔をしかめながら、晴美はそっと立ち上がろうとする。
本来なら彼女は、一可を呼びつけた理由をいの一番で話すつもりでいたのだが、どうやらそのようなことを口にできる状態ではないらしいと、ひとの上に立つ者特有の眼力で看破していた。
さらに追加で吐き出しそうになったため息を、今度はなんとか飲み込み、せめて微動だにしない彼氏に手料理のひとつでも振る舞ってやろうかとキッチンへ向かう。
そのために立ちあがった、そのときだった。
「なーご」
彼女の耳に、どこからか猫が喉を鳴らす声が聞こえてきた。
晴美は怪訝そうに眉間にしわを寄せる。
このマンションはペットの飼育が禁止ではない。しかし、彼女の知る限り、このフロアに猫を飼っている家はない。
そうしてこの階は地上37階なうえに、出入り口はオートロック。
なにかの間違いで猫が迷い込むようなことはありえない。
耳を澄ませてみるが、もうその声は聴こえなかった。
空耳かと割り切りつつ、今度こそキッチンに向かおうとすると、なにかがひしりと、彼女の腰にいきなり抱きついてきた。
びくりと驚きつつ、視線を落とすと、近衞一可が、そこにいた。
「……一可くん?」
「…………こ、が」
「あの、邪魔なのだけど? なに、甘えたいの?」
「猫が、いる」
「…………」
(この男、猫嫌いのふしでもあっただろうか……それはともかく、震えている? 怯えているのか、猫ごときに……?)
近衞一可はなにかに怯えている。
その言動から、先ほどの猫の声は幻聴ではなく、幻聴だとしても一可にも聞こえていた。
そして――
「ねぇ、一可くん。あなた――」
晴美は、尋ねた。
「その香水のにおい、どこで付けてきたの……?」
「――――ッ!」
その一言は、劇的な変化を一可に催した。
飛び上がるように全身をけいれんさせた彼は、さらに強く晴美の腰に縋りつく。
しがみつくといってもいいぐらいに強く、抱きついてくる。
その身体は目に見えてわかるほどにがたがたと震え、歯の根もあっていないのかカチカチと鳴っている。
「…………一可くん」
彼のその様子を見ても、晴美は情けないとは思わなかった。
一可がこれだけの感情を表に出すことは珍しく、また、それがなにか重要な事柄に起因しているだろうことは、火を見るよりも明らかだったからだ。少なくとも、晴美には即座に判断することができた。
彼女はそっと手を伸ばすと、一可の髪をすいた。
そのごわごわの髪を、いくらか脂の浮いている髪の毛を、丁寧にすきあげていく。
10分近くそうしていると、だんだんと一可の震えが治まってきた。
彼はやがて、両手を離し、がっくりとうなだれると、
「助けられなかった……」
ひとこと、それだけを口にした。
「……うん」
一度、晴美は頷き、
「許す」
それだけいうと彼を置いて、今度は示威行為ではなく真心から、一可の身体にぬくもりを与えるため、キッチンへと向かった。
一可は口元を
その様子を背にしながら、木戸晴美は、おのれの腹部をやんわりと抱き、考える。
(ジャスミンのなかでも消えない、この香りは……この、香水はシトラスの――ヴァーベナの匂い……でも、こんなにも強く香るものではないはず。それに、どこか花々に似た芳香も混じっている……どうして、それが一可くんの首筋から……)
晴美には解らなかった。
ただ、漠然とした不安と、どうやら一可が抱えているらしい暗澹たる心持だけは、なんとなく感じ取ることができた。
ちらりと、彼女は一可の様子を伺う。
彼はまだ、突っ伏したままで、その表情は伺えなかった。
(どうやら、彼にこのことを伝えるのは、また今度になりそうね……私の誕生日と合わせて、喜ぶかと、そう思ったのだけれどね……)
彼女は複雑そうに自らのお腹と、下唇を撫でるのだった。
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