13 恋人と逢瀬と深夜のエレベーターの――

 近衞一可が、木戸晴美と出会ったのは、4年前のことだった。

 大学を卒業し、新人社員として就職したばかりの頃、歓迎会を兼ねた花見の席で、彼は彼女と出会った。


「場所取りもろくに出来ないの、新人君?」


 第一声。

 花見の場所を上手く確保できなかった一可に、そんな冷たい声は投げかけられた。


「すみません」


 冷や汗をたらしながら振り返り、一可が見たのは、降りしきる桜花の中にたたずむ、ひとりの女性のたおやかな姿だった。

 艶やかな黒髪は肩口でそろえられ、象牙色のスーツの上にはらりと落ちる。

 二重瞼の奥の瞳は常にうるんでいるようで、一度男を捉えると蠱惑的に輝き離さない。

 のちに彼は知るが、その性格はかたくなで、押しが強く、主導的。

 それが自らのつとめる会社の、その創業者の娘であると一可が知るのはもう少し先のことであり、そのとき彼はただ、その姿に見惚れていたのだった。


『覚えている? あなた、いきなり私に好きですって言ったのよ? きれいだからって、桜の花みたいだって』

「そうして君はこう返した、それってすぐに散っちゃうって意味? って。俺はすごく狼狽ろうばいして、平謝りしたんだ」

『焦っていたのは覚えているわ。赤くなったり青くなったり信号機みたいだったもの』

「そういうなよ」

『いいえ、いまだから言わせてもらうけれど、はじめて私をデートに誘ったとき、あなた、おくんちに連れ出そうとしたのよ? すごく混雑するのに、それに、若い二人がわざわざ見に行くものではないわ』

「あれぐらいしか、直近のイベントがなかったんだよ。それに、お祭りは好きだと思った」

『なぜ?』

「晴美は、本当は冷たい人間じゃないから」

『…………。それって、いまだから言える話じゃない?』

「そうともいう」


 一可は、そこまで電話口で話をして、苦笑を堪えきれなくなった。

 ファミリーレストランを出て、運よく拾えたタクシーに乗り込み、彼はいま、駅前へと向かっていた。

 一等地にある高級タワーマンション。

 その最上階が、木戸晴美の住まいだったからだ。

 運転手に断わって、彼は晴美との会話を続ける。


「それで、どうしたんだ。いきなり会いたいなんて」

『……ええ。ちょっと、一可くんに、大切な話があったのよ』

「大切な話?」


 一可がそう尋ね返すと、何故か晴美は言葉に詰まったように黙り、しばらくして急に怒り出した。


『あなたが悪いのよ、帰ってきたのなら帰ってきたって、連絡ぐらいしなさい! 私は気もそぞろで……偶然あなたを見かけた部下がいなかったら、いまだって法事から帰ってきたことを知らないままだったのだわ!』

「それは」


(それは、悪かったと思っているんだ。自分のことでいっぱいいっぱいで、きみに、なにも言えなかったのは、気遣えなかったのは、悪いことだと。そうだ、もう素が晴美は、誕生日なのに……)


「ごめん」


 素直に一可が謝ると、電話口の先で、晴美は意外そうな声を吐いた。


『謝るなんて、珍しいわ。どうしたの? なにかあったの?』


 なにかあったかどうかで言えば、なにかはあった。

 それが、一可にとってあまりに重々しいことで、口に出せないだけで、酷く辛いことが、彼の身には降りかかっていた。

 それでも一可は、それを晴美には告げない。

 曲がりなりにも愛している人に、余計な心配をかけたくないという想いから。


「いや、ほら。やっぱり親族が亡くなるっていうのは、くるものがあるからね。ずっとお世話になっていた祖母ともなれば、なおさらさ」

『……そうね。確かに親しい人がいなくなるのは辛いことだわ。ごめんなさい、変なことを聞いてしまって』

「晴美が謝るなよ。君が謝ることなんて、ひとつもないんだ」


 木戸晴美に心配をかけたくない。

 その一心が、折れかけていた一可の精神を奮い立たせる。

 枯れた泉が再び湧くように、彼の心に光を湛える。


(そうだ。晴美と村で起きたことは関係ない。だったら、そんな風にふるまわなくちゃいけない。彼女に、心配をかけてはいけない)


 ひとり、大きく頷き、一可は気を組み直す。

 彼の顔色はあまり良くないままだったが、その心のありようの違いからか、幾ばくかの余裕が生まれつつあった。


「もうつくから、切るよ」

『ええ、すぐに会いましょう』

「もちろん」


 その会話を最後にして、通話は切られた。

 タクシーが、エントランスの前に滑り込む。

 支払いをして、降車した一可は、そのままマンションのなかへと歩み行っていく。セキュリティはしっかりとしているので、自動ドアは当該の部屋を呼びだしてロックを解除してもらわないと開かない。

 一可は晴美の部屋――3725室を呼び出し、応答。

 ドアが開いていく。

 そのままフロアに入ると、ちょうどエレベーターが下りてきており、これ幸いにと一可は乗り込んだ。

 このマンションのエレベーターは、各階のフロアが見えるシースルーエレベーターであり、一可はいかにも金持ちといった感触を受けるためあまり好きではなかった。

 しかし、だからといって階段を上るのは非合理であるため、一可はパネルを叩く。

 晴美の部屋は37階だ。

 パネルを操作すると、ゴウゥンと音を立てて、エレベーターが動き出す。

 一可は階数を表示するパネルを見上げる。

 1階、2階、3階……ゆっくりと、ゆっくりとエレベーターは上昇する。

 ふと見ると、エレベーターの窓に、自分の顔が写っており、その困憊こんぱいの具合に一可は思わず苦笑いをすることになった。

 無精ひげは伸びているし、髪はぼさぼさで、目の下にはクマが出来ている。

 あちこちがすり傷だらけで、それはひとりの女性を探し求めて山野中を駆け巡った証だった。


(ゆーり……)


 心のなかだけで、一可はその名前を呼ぶ。

 そうしてその直後に、愛する人を前にして別の女性の名を呼ぶ不義理に恥じ入ってしまった。

 小さく、顔をしかめ、俯いた。

 そのときだった。


    ――朱色あけいろ――


 なにかが、彼の視界に入った。


「……え?」


 意図せずに、一可は言葉を漏らす。

 見上げている。

 俯いた一可の下向きの視線と、〝それ〟の視線が出合う。

 交錯する、一可の瞳と、茜の色。

 エレベーターが階層を昇り、それはすぐに見えなくなる。

 しかし、


(なんだ……いまのは、いったい……? なにか、なにかとても、悍ましい……)


 エレベーターの外が、また見えるようになる。

 一可は鋭く息を呑んだ。

 いた。

 夜の闇の中に。

 うっすらと照らし出されるフロアの中に。

 〝それ〟は立っている。

 〝それら〟は立っている。

 昏い夕暮れよりもなお深く、夜の闇より鮮烈な、濁った、煮凝った、


 両目の赤い白猫が。

 そして、右目だけが赤い女性が。

 近衞一可を、見つめている――


「――ひっ」


 反射的に悲鳴を上げ、一可は一歩後退する。がたんと音立てて、背中がエレベーターの、そのちいさな箱の限界へと達する。

 逃げられない。

 その場所からは逃げられない。

 あまりに狭い、籠の鳥……


(なんで、なんで、なんで、なんで!?)


「なんで、が……いる!?」


 恐怖が、一可のなかで鎌首をもたげる。

 ゴボゴボと音を立てて、怖気が背筋に這い上がる。まとわりつくのは、不穏な気配。

 〝それ〟はすぐに見えなくなる。

 エレベーターがまた、一つ階層を昇る。

 だけれどすぐに、また現れる。

 立っているのだ。

 フロアごとに。

 フロアを隔てても。

 まるで先回りするかのように、一可のまえに。

 〝それ〟が。



 赤い、紅い、両目の赫い――、近衞一可を、見上げていた。



「うわああああああああああああああああああああああああああ!?」


 恐怖に押しつぶされ絶叫を上げるのと、エレベーターが目的の階に到着するのはほぼ同時だった。

 チンと軽い音を立てて扉が緩慢に開く。

 待ちきれないようにその扉に手をかけ、強引に押し開きながら、一可は筐体きょうたいの外に飛びだした。

 いない。

 そこには彼女の姿はない。

 走る。

 一心不乱に、一可は走る。

 走って、走って、走って。


 3725室。


 一可は、その扉を叩いた。乱打した。


「晴美、晴美、晴美春美晴美! あけてくれ俺だ、一可だ近衞一可だ!」


 金切声のように叫びながら、何度も何度も何度も、一可は扉を叩き続ける。


(どうして、どうして、いる? なんで、なんであいつが、あんな目を、眸を、ああ、ああ……!)


 惑乱の極致にありながら、一可は一心に願っていた。

 眼の前の扉が開くことを。

 救いの手が差し出されることを。

 彼はついに、扉を無理矢理開けようとして――



『ニゲラレナイヨ ?』



「――ッ!?」


 はぁぁぁぁぁぁぁ……。

 その囁き声音ともに、なにか生温いものが彼の首筋を撫でた瞬間、一可は幻視した。

 恐ろしい化け物が、その乱杭歯が、いままさに自らの首筋に突き立てられようとしている光景を。

 一可が、その正体を知ろうと無意識に振り返りそうになった刹那。

 その刹那。

 扉が。


 ――開いた。


「もう、うるさいわ。そんなに強引にしたら警備会社が来ちゃ――きゃっ!?」


 ぷりぷりと怒りながら文句を口にしようとする晴美は、急に室内に倒れ込んできた一可を抱きとめて、吃驚きっきょうの声を上げた。

 彼女がそうしている間にも、一可は弾かれたように立ち上がり、ドアを閉めて、鍵をかける。ドアチェーンまで綿密に。

 なにがあったのかと問い詰めるより前に、近衞一可は、その場に崩れ落ち、ドアを背にして座り込んでしまった。


「えっと……一可くん?」

「ぁ、あああ、ああ」


 晴美の目に映るのは、憔悴しきった恋人の、絶望に満ちた、眼差しだけだった。

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