12 雑炊と過ちと電話
「なにを食べる?」
「いや、俺は食欲が……」
「なら、これでいいな。この暑さだが、辛抱して食え」
店内に入り、席へ着くと、紀一郎はてきぱきと支度をした。
店員へ迷うそぶりも見せずに注文をし、ドリンクバーから2杯のジンジャエールを汲みだしてくると、一方を自分のまえに、そしてもう一方を対面に座る一可の前に置いた。
「おまえ、酒に弱かっただろ」
「……ああ」
「じゃあ、これで我慢だ」
紀一郎はジンジャエールをごくごくと一息に飲み干し、そうしてまた、貫くような目つきになって、「なにかあったのか」と、一可に訊ねてきた。
「…………」
船越紀一郎は、一可の高校時代の友人――親友の類であった。
あまり褒められたものではないことも、逆に誰かを助けるようなことも、多くのことを一可は紀一郎とやってのけたてきた。
一可の良くない所も、良いところも理解した、気の置けない人物。それが紀一郎だった。
しかし、だからこそ一可は、自分の身に降りかかった出来事を、簡単には口に出せないでいた。
たしかに紀一郎は一可にとって親友だが、ここ数か月はろくに連絡を取っていなかった。それはひとえに、恋人である木戸晴美に一可が入れあげていたせいであり、その呵責もあって、なんだか口に出せない気持ちが彼のなかにはあったのだ。
それ以前に、
(こんな荒唐無稽な話、現代日本じゃ、誰も信じてくれない)
そんな思いが、一可の心中で渦巻いていた。
だが、その様子をどう受け取ったのか、紀一郎は一可が思いもよらない問いかけを口にして見せた。
「だれか死んだのか」
「え?」
「そういう顔を、おまえはしている」
「――――」
死んだ。
亡くなった。
死。
その言葉が、とうとう一可の心にひびを入れた。ギリギリの一線で保たれていた彼の精神を、大きく傾けてしまったのだ。
「死んでない! あいつは、死んでなんかいない!」
バン! と、テーブルに勢いよく手を突き、立ち上がりながら一可は叫ぶ。
テーブルの上に取り出しておいていたスマートホンが跳ね、ガタンと鳴る。
深夜のファミリーレストランにその怒声は響き渡り、周囲の客たちが何事かと、そしてスタッフたちが面倒臭そうに一可たちを注視する。
それに気が付きながらも、彼の激情は収まらなかった。
治める方法が一可には解らなかった。
「死ぬわけがないんだ、あいつは! ゆーりは! 笑って、いたんだぞ……?」
(そうだ、どうしてあいつが死ななくちゃいけない。母さんが、父さんが、婆ちゃんも死んで、そして、そして)
「う、うううう」
気が付けば、一可の両の瞳からは、涙がこぼれ落ちていた。
ぼろぼろと、止めどなく、熱いしずくがしたたり落ちる。
一可はただ、悔しかった。
自分が大切だと思うものが消えていくことが、支えになりたいと思った人が、いなくなってしまうことが。
それを引き起こした理不尽が――ただ憎かった。
「……詳しく聴いてやる。だから」
まあ、飲め。
一可の豹変を黙って注視していた紀一郎は、やがてポツリとそう言って、そっとコップを差し出してみせた。
琥珀色の液体の中で、小さな気泡が無数に弾けている。
一可は、それを引っ掴むと一息に飲み干した。
喉が炭酸で焼ける感覚。
それが、少しだけ彼には心地好かった。
「話せるか?」
紀一郎にそう問われ、一可はゆっくりと腰を下ろし、一度、頷いた。
「友達が、いなくなったんだ」
近衞一可は、語る。
その、不可思議な出来事を。
◎◎
「――なるほど」
お世辞にも要領を得ていたとは言い難い一可の説明を、それでも淡々と聞き終えて、紀一郎は小さく唸ってみせた。
一可は紀一郎に尋ねる。
「どう思う?」
「一番現実的なのは、おまえが狂ったということだ」
紀一郎は、恐る恐るといった様子の一可に、身も蓋もない言葉を吐きかける。
しかし、その表情はどこまでも真剣だった。
「それが順当な答えだろう。だが、仮におまえが狂っていないとすれば、これはとんでもないことになる。少し、話しを整理するぞ。俺の質問に、答えてくれ」
「あ、ああ」
予想外の真剣さに驚きながらも一可が頷いたところで、ちょうど紀一郎が注文したメニューが届いた。
紀一郎はざるそばを、一可にはその店の名物である雑炊があてがわれた。
「雑炊……」
「我慢して食え。すぐに消化されて元気が出てくる」
そう言われてしまえば、一可に反論ができるわけもなく、空調が利いているとはいえ真夏に、アツアツの雑炊を貪るはめになった。
「ひとつめの質問だ」
「ん、ああ」
「酷く重要なことだ。久世悠莉という女性は、本当にいたのか?」
「……ああ。それは断言できる」
口に運びかけていた熱い匙を鍋に戻しながら、一可は神妙な表情で頷く。
彼にとって、久世悠莉は確固たる存在であり、無二の親友だった。
「ゆーりは確かにいた。俺の幼馴染だ、小さい頃から、一緒だった。それを」
「それを村人たちは知っているはずなのに、おまえの叔父までが、その人の母親までが否定した。そうだな?」
「……そうだ」
「……では、ふたつめだ」
表情を険しくする一可とは対照的に、紀一郎はそばつゆに薬味を足しながら、大したことではないといった風に尋ねる。
ただ、一可を見つめる眼鏡の奥の彼の瞳は、鋭さを増していた。
「その血眸さまというのを、村人たちは全員知っていたのか。人に祟りをなすから隔離したと、その屋敷を作ったことも知っていたのか?」
「それは……」
「確認していないんだな?」
「そうだ。俺は叔父さんからそう聞いただけで、そして知っているはずだと言われたけれど、知らなかった。血眸さまのことは、名前しか」
「…………。なら、最後の質問だ」
紀一郎は問う。
組んだ両の手で口元を隠して、ねめつけるように一可の様子を観察しながら。
詰問する。
「久世悠莉は、血眸さまが危険だと知っていたはずなのに、どうしてその屋敷へいったのか。そして、なぜその屋敷の存在を――知らないふりをしたのか」
「……!?」
紀一郎の言葉に、一可はびくりとなる。それまで彼はつとめて考えないようにしてきたが、否――思い至らないように思考を停止してきたが、それは確かに、あまりに不合理な部分だった。
「村の人間が血眸さまとやらの脅威をずっと昔から知っていたのなら、屋敷をわざわざ建てるというのも解る。血眸さまなんていないのだとしても、そう言った風習はあるだろう。だが、そのひとが知らないというのはおかしい。久世悠莉。その名字は、昔話にも出てくる」
さしあたって、村では立場の強い家なのだろうと、紀一郎は一可に尋ねた。
(そうだ。だから、ゆーりは俺を村の仲間に加えることができた。俺の家が近衞家で、あいつの家が久世家だったから。どちらも有力な家だったから。でも、その由来を俺は、叔父さんに訊くまで知らなくて)
「待ってくれよ紀一郎。それじゃあまるで、ゆーりは全部知っていて、それでもあの家に行ったみたいじゃないか。そんな危険な場所なら、近寄るはずがない」
「爺さんがいたんだろう? おまえはそれを見たと言ったはずだ。その爺さんが気にかかった、というのじゃないのか? 危険なら、なおさらだろう」
違う、と。
一可は咄嗟に心のなかで否定していた。
確かに一可の知る悠莉の性格なら、その老人を見過ごせなかったというのはあるだろう。
しかし、それ以前に、賢い彼女が自ら危険に、しかももう少し待てば柊人たちがやってくることが解っていたにもかかわらず強行した理由が、ついぞ一可には見いだせなかった。
そう、その行動は、あまりに久世悠莉という女性の行動理念から、かけ離れているのだった
「なんでだ? なんで、ゆーりは自分から危険に飛び込むような真似を」
「血眸さまなんていなかったから」
「え?」
「はじめっから、そんなものは存在しなかったから、じゃないのか、近衞?」
一可の目の前で、紀一郎はこれ以上もなく真剣な表情を浮かべていた。
その言葉は、一見すれば一可の正気を疑っているようにも聞こえたが、しかし彼を案じての言葉ということが、付き合いの長い一可には理解できた。
だからこそ、反論するしかなかった。
「いた。いたんだ、あのわけの解らないものは。あの、あの赤い目の――」
「おまえがなにかを見たというのは信じる。その屋敷でひどく剣呑なにかが起きたことも。だが」
それは本当に、血眸さまだったのか?
「――――」
紀一郎のその一言で、一可はなにも言えなくなった。
彼は今まで、あの夜に見た右目だけが赤い謎の人物こそ、血眸さまというバケモノだと思っていた。
だけれど、その前提すら違うのではないかと、目の前の友人は言うのだ。
一可には、もうなにも、わからなくなっていた。
ガラガラと、常識という足場が崩れ落ちていくような錯覚を、一可は覚えていた。
「じゃあ、じゃあなんなんだ、あれは。ゆーりはなんであんなものに襲われて、俺は、俺は……」
「まずは落ち着け。なにもわからないときは、一つ一つ確かめていくしかない。人間というのは、そうやって今の文明を作ってきたんだ」
「…………」
「わかった。なら、こうしよう、近衞。俺が――」
紀一郎が何かを言いかけたとき、一可のスマートホンが、急な着信を告げた。
「……晴美」
アナウンスされているのは、木戸晴美の名前だった。
一可は紀一郎を見て、紀一郎は憮然とした表情で押し黙り、顎をしゃくって電話に出るように促した。
そっとスマートホンを持ち上げて、
恐る恐る、一可はそれを耳にあて、答えた。
「近衞、一可だ」
『晴美よ。いきなりだけど、いまから会えない?』
突然なその申し出を、一可は、しかし二つ返事で了承した。
いまはただ、彼はぬくもりを欲していた。
紀一郎と別れ、彼は木戸晴美のもとへと向かう。
ファミリーレストランに残った紀一郎のまえには、飲み干されたジンジャエールのコップと、食べかけの、冷えた雑炊が残されていた。
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