18 老刑事の確信と事件への直感

 だんまりを決め込んだ近衞一可の様子を見て、調書製作係を自ら買って出た三条さんじょう玄司げんじは、ひとり首許を撫でる。

 ここ数年の相方である有島真は、舌鋒鋭く一可を問い詰めてはいるが、おそらく目新しい情報を探り出すことはできないだろうと彼は踏んでいた。

 玄司には、長年勤めあげてきた刑事としての勘働きがある。

 それが、今回に限って、近衞一可は無実であると告げていた。


(しかし……)


 と、玄司は聴取の記録を睨みつける。

 いまのように口を閉ざすまで、近衞一可という男は奇妙なことを口走っていたのである。それが、彼の手によってノートパソコンに刻まれている。


(血眸さまの祟りってのは、どういうことだろうねぇ? あたしの眼が狂ってなければ、この男、ちっともオカルトなんてのに傾倒しているようには見えない。現実主義者だ。当たり前に怒って、当たり前に泣く。だというのに、なぜこんなことを口走った……?)


 玄司はまた、首許を撫でる。それは、彼が考え事をするときの癖だった。

 一可は、玖契村で体験したことを、問われるまでもなく喋っていた。

 幼馴染が化け物に襲われ失踪したこと。住民たちが口をそろえてそんな人物は元からいなかったと告げたこと。そして、その幼馴染を、木戸晴美が殺されたマンションで見かけたことなど、そのすべてを口にしている。

 それを幻覚や妄想の一言で片づけるのはたやすい。

 だが、玄司にはなにか引っかかるものがあった。


(今回の事件ヤマ、どうもきな臭い。とてもじゃないが尋常な事件とは思えない。もちろん、オバケなんて信じていないがね。しかし、なにか裏があるとみるべき、なんだろうねぇ……)


 彼がそう考えるのにはれっきとした根拠があった。

 なにせ、木戸晴美を殺せた人間というのが、物理的に存在しないからだ。


(ガイシャと近衞一可がともに家を出たのが07時03分。木戸晴美が帰宅したのは21時37分。近衞一可に木戸晴美が呼び出しの電話をかけたのは13時52分。そして近衞一可がガイシャの自宅を訪ねたのが22時15分、近衞一可の友人船越紀一郎からの警察への通報が22時35分。現着が22時45分……どう考えても、時間が足りないねぇ)


 もしも一可が犯人であり、晴美を殺しその遺体を損壊した場合、腑分けまでを含めて30分の間に行わなければならない。


(人間の身体ってのは案外解体ばらすのが大変だ。もしやってのけたとしても、全身は返り血で手ひどいことになる。しかし、この兄ちゃんはゲロにこそ塗れていたが、血には塗れちゃいなかった。着替えた痕跡も細工をした形跡もない。また、あの部屋は物理的に鉄壁のセキュリティーにあったと言っていいはずだ。監視カメラの映像、その偽造もいまのところ見当たらない。オートロックに関しては抜け道もあろうが、それでも難しい……そして、一番の難題はこれだ)


 ぴんと、彼はノートパソコンとは別の、手元の資料を指ではじいて見せた。

 真が一瞬だけ玄司の方に視線をやり、頷いてまた一可への聴取に戻る。彼女の視線にも、半ばあきらめの色がにじんでいた。

 玄司が手にしている資料には、凶器について書かれている。

 晴美の死因は窒息死だが、その全身を損壊したのは、たった一本の包丁だった。

 胎児を壁に縫い付けていた包丁の刃、その欠け具合と、体内に残留した破片や切り口から、それは間違いのないものとして断定されている。


(だとすれば、犯人ホシは常軌を逸した怪力の持ち主になるねぇ。人間、しかも妊婦をさばくとなれば、包丁なんてすぐにダメになるに決まってるのに。それでも包丁一本で解体ばらしている。狂気的なんだよ、強い怨嗟を感じる。顔面を殴るのだって、あれだけやりゃあ拳に傷の一つも付く。だけれど近衞一可にはそれがない。傷も、狂気も、怨嗟もない。こいつは――シロだ)


 だからこそ、犯人が解らないと、玄司は顔をしかめる。

 調書の続きを書きながら、きまぐれに一可へと問いを、彼は投げつけてみた。


「なぁ、あんちゃん」


 それはひどく軽い言葉だったが、のちに、彼の運命を変えてしまう、そういうたぐいのものであった。


「あんたの彼女さんがね、妊娠してたこと知ってるような奴、心当たり、あるかい?」

「…………」


 しばらくの沈黙の末、一可は、沈黙を破って答えた。


「あるわけ、ないじゃないですか……あいつ、俺にも……あぁ……そうか、あいつはずっと、それを俺に言おうとして、だから、電話でも、あんなことを……」


(あんなこと……?)


「なにを言ったんだい、あんたの彼女は?」

「大切な、話があるって……いま、俺に言わなくっちゃ、取り返しがつかなくなるって、あいつは、そう言って――」

「――――」


 玄司は、奥歯を噛んだ。

 眼の前の男はどうやら気が付いていないようだと、ほぞも噛んだ。

 それはつまり、


「被害者は、こうなることを予知していたかもしれない……そういうことだね?」

「……!」


 眼を見開く一可。

 その様子に、彼が犯人ではないことを確信しながら、玄司は相方の女刑事、真へと告げた。


「すぐに調査のやり直しだ。木戸晴美と、当日13時52分より前に会った、会話したすべての人間をあげるんだ。

「は、はい、玄さん!」


 真が応じるのを見てとりながら、玄司は思った。

 この事件は、ひどく根が深いものだろうと。

 彼の直感と――、そう物語っていた。

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