08 幼馴染と赤い瞳の――
――息を呑む。
近衞一可は息を呑む。
眼の前の影、見通せない闇の中から、それは這い出して来る。
ズルリ、ペタ。
ズルリ、ペタ。
なにかを引きずる音。
右足を引きずる音。
床を踏む音。
素足が床を踏む音。
ズルリ、ペタ、ギシ。
ペタン、ズル。
ズルリ、ベチャ。
湿った音。
その粘着質な音は、廊下の奥、その彼方から響いてくる。その音が、一可の耳にこびりつく。
(動けない)
一可は、極度の緊張から身動きが取れなくなっていた。
だけれど、
『……いっちゃん……』
その声に、雷撃に打たれたように、身体がふるえた。
それは彼がよく知る声だったから。
幼馴染の、久世悠莉の声だったから。
だから、叫んだ。
「ゆ、ゆーりなのか!? いま、そっちに行く! すぐに行くから――」
『……駄目だよ、いっちゃん』
その声は。
妙にくぐもった、すきま風の抜けるように弱々しい声は、彼が前に進むことを、拒絶した。
『ダメ。これは、ダメだよ。もう、取り返しがつかなかった、遅かったんだよ、ぜんぶ』
「なにを、なにを言ってるんだ、ゆーり……?」
一歩、戸惑いながらも一可は踏み出す。
一言、悠莉の声は、なにかを嘆く。
『あたしは間違えた。そういうことじゃなかった。あいつがゼンブ悪かった。美千代さまは、きっとこれを予見していたんだね。だから、あたしの家にも、いっちゃんにも、ああ!』
「ゆーり!」
乱れる幼馴染の声。
一可は進む、
懐中電灯のかぼそい光が照らす。
震える彼の手を通して、その光も左右にぶれる。
ゆっくりと床を。そしてその先を。
彼が見たのは、悠莉の足。
いつの間にか、靴も、靴下も脱げて、ジーンズもところどころ破れてしまった足。
『いっちゃん』
悠莉が言う。
一可は電灯の明かりを上げる。
崩れ落ちた、悠莉が。
懐中電灯の明かりの中に落ちて、彼女の全身が照らしだされる。
一可は、悲鳴をあげた。
『逃げて、いっちゃん』
ヒューヒューと鳴る彼女の声。
隙間風のようなか細い声。
それは、当然だった。
当然だと、惑乱する一可の脳髄でも理解できた。
彼女の喉には、その白く細い喉もとには、
右目だけが赤い少女が――一可が違和感を覚える少女が、その牙を、乱杭歯を突き立てていたのだから。
『いまは逃げ延びて、いっちゃん……!』
断末魔のように、悠莉が叫ぶ。
その瞳は赤い。
潰されて、抉りだされて、血涙を滴らせるその
見えない眼で、それでもなにかを見出すように、悠莉は自らの喉元に食らいつく存在へと手を伸ばす。
その手が少女のようなモノの長い黒髪を掴み、逃がさぬように固定する。代わりに、ゾブリと牙がひときわめり込み、嗚呼と悠莉は、官能とも絶望ともつかない声音を漏らした。
(――――)
そのさまを、一可はただ呆然と見つめていた。
呆けて、魂が抜けたように、放心して見詰めていた。
自分の股間がいきり立っていることに、彼は気が付かない。
ただ、危機感だけが、彼の頭蓋のなかで警鐘を鳴らしていた。逃げろ、逃げろと。いま逃げなければ、次は自分の番だと。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ――
『いっちゃん逃げて!』
振り絞るような悠莉の声。
そして、悠莉の喉元に食らいついたまま、半月のようにニタァと嗤う少女の形をしたなにか。
次の瞬間、一可は、
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
絶叫をあげて、その場から逃げ出していた。
幼馴染をその場に残して、見捨てて、逃げだしていた。
逃げて、走って、転んで、跳ね起きて、また走って。
何処をどう走ったのか、屋敷のなかは、まるで迷路のように遠大で、複雑で。しかし一可は、辿り着く。
出口。
唯一月光の射し込む、玄関へと辿り着いて――
ガラ、ガラガラ……
彼が開く前に、その引き戸は、ゆっくりと開いていった。
一可の心臓が跳ねる、恐怖に再び絶叫をあげる――その寸前で、
「おう、一可。やっぱりここに来てたか」
その人物は、引き戸の向こうから現れた彼――小坂柊人は、片手をあげて微笑んだ。
一可は、その場にへなへなと崩れ落ち、そして思い出したように顔を跳ね上げて、柊人へと詰め寄った。
「お、おじさん、大変なんだ! ゆーりが!」
「ゆーり? 俺たちは血眸さまに供物を」
「そんなことどうでもいいんだよ! ゆーりが、久世悠莉を、俺の幼馴染を」
助けてくれよ、おじさん……!
一可は、身を切るような思いで、そう訴えた。
心の底から、叫んだ。
柊人は。
「久世、悠莉……?」
小坂柊人は。
「あー、一可?」
彼は、言った。
「誰だ、それは?」
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