第三幕 深夜の屋敷と白猫と赤い瞳の――

06 深夜の屋敷と積もった埃

「……本当にいいのか?」

「うん、急いで」

「…………」


 悠莉に促されるまま、一可はその古びた引き戸に手をかけた。


(いったい、どういうことなんだ……?)


 困惑し、躊躇い、彼は一度、目の前の建物を見上げる。

 二階建ての、古くも新しくもない、日本的な家屋。

 シンと静まり返った闇の中にそびえる屋敷は、ひどく不気味で、恐ろしいものであるように感じられた。

 二階の窓には、いまも紗幕が、ピシリとひかれている。

 背筋に嫌なものを感じながら、一可は力を込める。


「なあ、ゆーり」

「急いで、いっちゃん。柊人おじさんにも連絡したから、すぐに近衞と、少し嫌だけど元家、自治会のひとたちが来てくれるから」

「うちの家と、自治会……? それに元家が嫌だって? なんでだ? そもそもゆーり、俺は血眸さまがなにかも知らな――」

「いいから。いまは一刻も早く、そのおじいさんを助けなきゃ」


(助けるって……やっぱり意味が解らんが……しかし、こいつがここまで必死になるってのは、なにか理由があるはずだ。だったら、俺は)


 いつになく眼差しを鋭く──険しささえ宿す悠莉に押し切られる形で、一可は頷き。

 生唾を呑み込んでから、今度こそ引き戸を引いた。


「開いた」


 ガタガタと音を立て、簡単に引き戸は開く。

 もとより田舎の村落である、夜分でも鍵をかけるものなどいない。

 しかし、それでも。

 その戸は、一可の覚悟とは違い、あまりにあっけなく開いたのだ。

 まるで、


(まるで、俺たちを誘っているみたいに)


 そう思ったのも無理はないことだろう。

 眼前にあるのは完全な暗闇だ。

 恐ろしいほどの密度の、どろりとした闇が、そこには立ち込めているのだった。


 なにもしていないのに、一可の額に汗がにじむ。

 夏場特有の生温い風だけが原因ではないようだと、彼は思った。


 悠莉が、その闇に懐中電灯の光を向けた。

 埃がちらちらと灯りに反射し、舞い踊る。

 しかし、旧式の懐中電灯の明かりは頼りなく、手前10メートルほどを局所的に照らすだけで、屋敷の奥深く、そこに積もる闇を暴いてはくれなかった。


 悠莉が無言で、片足を引き摺りながら歩き出す。

 慌てて一可は彼女を追い越し、先だって進み始めた。


「っ」


 一歩屋敷に踏み入った瞬間、背筋を冷たい手が撫でたような怖気がはしった。

 闇が深い。

 闇が濃い。

 気を抜けば、毛穴という毛穴からそれが染み込んでくるほどに、その屋敷のなかは暗闇に支配されていた。


「窓が、塞がれてる?」

「段ボールだね、それをガムテープで、ふさいでるみたい」


 月光すら射し込まないことに疑問を覚え、窓を照らしてみれば。

 そこはピッシリと隙間なく、目張りがされている。

 室内に漂う停滞した空気も、それが生んだものだろうと、一可は考えた。


 カビのようなにおい。

 えた臭い。

 そのなかに、なにか、甘いものが混じっている――


「いこう、いっちゃん。もっと先だよ、きっと、もっとさき」

「あ、ああ」


 幼馴染に促されるまま、彼は屋敷の奥へと進む。

 廊下にはうっすらと埃が積り、一歩踏み出すたびに舞いあがって、懐中電灯の灯りの輪のなかでチラチラと踊る。

 そこで、ふと一可は気が付いた。


(足跡が、ない?)


 板張りにも、室内の畳の上にも、埃は積もっている。

 掃除の行き届いていない、分厚く層を重ねた埃は、逆に言えば少なくとも数日間、誰もそこを歩いていないという証拠だ。

 偽装されているのではないかと一可は考えるが、それが苦しい物言いであることも理解できていた。


「ゆーり。おかしい、なんか、ここはおかしい」

「…………」

「ゆーり?」

「…………」

「ゆーり!」

「……上だよ、いっちゃん」


 一可の言葉を無視し、屋敷の中を物色していた悠莉は、ゆっくりと顔を上げると、高い天井を見上げた。

 蜘蛛の巣がはった、しみだらけの天井。

 つられて顔を上げた一可は、そのしみの内のひとつが、あたかもひとの顔であるように見えて、奥歯を噛み締める。


(馬鹿か、俺は? ここは現代日本だぞ、シュミシュクラ現象だ、こんなのは。しみが人の顔に見えるなんて、ありきたりな脳のバグに過ぎない……!)


 内心の恐れを無理矢理にねじ伏せ、一可は目の前の友人を見つめる。

 彼女の瞳は常に同じことを語っている。


 早く行こうと。

 彼に、自分の足であってほしいと。

 それは、信頼にも似たまなざしだった。


「いこう」


 迷いを振り切り、一可は、二階への階段を目指す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る