第二幕 大雨と幼馴染と噂話の――

03 大雨と黄色い傘と幼馴染

 轟々と滝のように降りしきる雨を、広い縁側から眺めて、一可は重たい息を吐いた。

 昼を回っても、豪雨は一向に衰える気配を見せない。

 むしろいっそうに勢力を増し、たとえここが山中ではなかったとしても運転を控えるような、そんな荒天と化していた。

 地面のぬかるみは酷く、バスが運休していると家人から告げられ、一可はまたもため息を吐く。


「まるで、婆ちゃんが死んだことを、おそらさんまで悲しんでくれてるみたいやな」


 ポツリと聞こえた声に、一可は振り返った。

 背の高い男性が、背後に立っていた。


柊人しゅうと叔父さん」

「よう、帰り損ねたか、華南かなん姉さんの忘れ形見」


 ピシリと礼服を着こみ、銀縁眼鏡をかけたその男性は、砕けた表情で笑いかける。

 一可の実母の弟、叔父にあたる小坂おざか柊人であった。


「無理してでも早いところ帰らんと、この雨じゃあ、じきに道が潰れちまうぞ」

「土砂崩れでも起こるって? おおげさじゃないか、現代日本だってのに」

「お前は口を開けばすぐそれだ。『現代日本』『現代日本』。斜面の整備が出来てない僻地へきち辺境へんきょうなんざいくらでもある。で、この村はその辺境のひとつだ。実際、バスはそれを警戒して止まっとる」


 柊人は眼鏡の奥の眼をゆっくりと瞬かせ、大雨が降りしきる外へと向ける。

 それから、声を落して、


伊雅いみや義兄にいさんと華南姉さんのことは、本当に残念だったなぁ」

 

 そう言った。

 途端に暗い影がその場を包んだが、一可は、なんともないように両の肩をすぼめて見せた。

 つとめてあっけらかんに答える。


「人間はいつか死ぬよ。父さんと母さんは、たまたま俺より先に死んだってだけさ。婆ちゃんとおんなじだ」

「……たまたま、な」

 

 そう、たまたまだと一可は続ける。

 3年前にした、自分の両親のことを思えば、やはり祖母は大往生だったのだろうと、一可は口の端を少し持ち上げた。


「そういえば叔父さんは帰らないの? さっさと帰らないと、道が潰れちゃうんでしょう?」


 冗談めかして一可が尋ねると、柊人は真面目な表情になって、


「家長になっちまったからな、仕方がない」


 ふんと鼻息をついてみせた。


「婆ちゃんの遺書にゃ、そりゃ事細かな指示がしてあってな。そのすべてをするまで、おいは帰れんのよ」

「ふーん、家長ってのは、大変だね」

「特にこの家はなぁ……まあ、だがな、一可。おまえも所帯を持ったら、そうなるんだぞ?」


 叔父の冗談めかした言葉に、「よせよ」と一可も笑う。

 確かに彼には、木戸晴美という将来を見据えた彼女がいたが、まだ確かな婚約の意思を示せてはいなかった。


(むしろ、今年の誕生日に、いろいろアプローチをかけるつもりだったんだけどなぁ……)


 彼はそんなことを思うが、天候は好転などしてくれない。

 ただただ、重い雨のしずくが降り積もるだけだった。


◎◎


 しばらくそうやって、一可は柊人と会話を交わしていたが、心はというと離れたところにいる木戸晴美のほうへと向いていた。

 だから、雨の中に混じる蛍光色を見て取ったのは、柊人が先だった。


「うん? なあ、一可。あれ見えるか」

「あれって?」

「あれだ、あの……幼稚園児が差していそうな傘だよ」


 言われて、一可は目を凝らす。

 10メートル先も見えないような土砂降りのなか、ちらちらと、蛍光色の傘が雨間の中で踊っているのを、確かに彼は見て取ることができた。

 ただ、動きが少しばかり奇妙で、その先端が、右へ、左へと、ふらりふらり揺れているのだ。


(なんだろう? 妙に見覚えのある動きだけど……)


 記憶の糸を手繰っているうちに、傘はどんどんと近づいてきて、一可が気が付いたときには、もうその人物は目の前に立っていた。

 小柄な体を包む黄色いレインコートに、黄色い長靴、黄色い傘。


(交通ポスターのキャラクターを、そのまんま抜き出してきたみたいなやつだ)


 そんな風に一可は思い。

 同時に、その人物が誰であるかも思い出していた。


久世くぜ悠莉ゆうり……」

「ん、久しぶりだね、いっちゃん!」


 その人物、一可の幼馴染である久世悠莉は、傘の下から晴れやかに微笑んだのだった。


「おー! 悠莉ちゃんか!」


 小坂柊人が、一瞬だけ顔をしかめた後、取り繕うように努めて明るい声で悠莉に笑いかける。


「どがんね? 元気にしとったか? 身体はどうかね? うん? そんな顔して俺がわからんか? おいじゃ、柊人じゃ!」

「こんにちは、柊人さん。解りますよー、ひょっとして、あたしの格好がこんなだからって、頭ん中まで幼稚園児みたいだとか、そんなこと思ってるんじゃないですかー?」

「はっはっは、そんなことは思っとらんけん! ちくっとでもそう考えたら、ほら――」


 そこで柊人は、ボーっとしている一可をちらりと見て、


「悠莉ちゃんの王子様に、殴られちまうけんなー」


 と、そう言った。


「お」


(王子様って、それは違うぞ、柊人叔父さん!?)


 ハッと我に返った一可が反論しようとする前に、柊人は「じゃあ、ちょっとお茶でもれてくるか」と言い残して姿を消してしまう。

 あとに残された一可は、戸惑いながらも振り返り。


「……やあ」

「うん、変わってないね、いっちゃん!」


 雨具で身を固めた、茶髪でセミロングの幼馴染と、向き合うことになったのだった。


◎◎


「えっと……おまえ、なんか変わったな、ゆーり」

「どのへんが?」

「いや……服装とか、センスとかは全然変わってないけど、その……大人っぽくなったっていうか」

「そう言ういっちゃんは、なにも変わってないね」


 ポリポリと頬を掻く一可に、悠莉は柔らかく微笑んで見せた。


(なんか、不思議な気分だな……)


 記憶のなかの幼馴染との相違に戸惑いながら。

 一可は、右足だけを縁側に延ばして座る彼女の姿を、まじまじと見つめる。


 雨具を脱いだ悠莉の格好は、至ってシンプルで、半袖のTシャツにジーンズというものだ。

 デニムに包まれた足はすらりと長く、無駄な肉は見られない。かといってか細い訳ではなく、太ももやふくらはぎなどはよく引き締まっている。

 トレーニングや肉体改造でむりやり鍛え上げられた肉体ではなく、自然に研ぎ澄まされていったような肉の付き方だった。

 のびやかな四肢の線は細いが、カモシカのような俊敏さがそこにはあった。

 ただ、やや左足に対して右足が細い。


 シャツの袖から露出した肌は、健康的な小麦色をしており、活発さがあふれている。

 そっとかき上げられた髪の下にのぞくからは、一可の記憶にはない蠱惑的な色香すら漂ってくるように感じられた。

 事実、彼女の首筋からは、うっすらと香気が――爽やかなシトラスの香りが漂ってきていた。


(なんというか、妙に目が離せない……やっぱりこいつも、成長するんだな……)


 そんなことを、一可は思う。

 俊敏だ、細くあるといっても、悠莉の全身には仄かに柔らかな肉がつき、女性的な丸みを帯びている。


 顔の造作も、いくらか一可の記憶とは違う。

 ぱっちりとした目蓋や、薄い唇、長い睫毛まつげ、頬のそばかすなどは変らない。

 だが、それが全体的に彼の記憶よりも大人びており、艶やかな印象を与えているのだった。


(ゆーりは、まだ村に住んでいるのか? だとしたら、男どもがほっとかないだろうに)


 自らのことは棚に上げ、そんなことを考える。

 考えるが、それ以上はうまく思考がまとまらない。

 ただふたりして、黙って腰掛けて雨空を見上げるという時間が続く。


「今日は、どうしたんだ」


 柊人が出したお茶を一口すすってから、ようやく一可は、そんな風に切り出した。


「うん、いっちゃんが」


 悠莉はそこまで口にして、かすかに頬を薄紅色に染め俯いた。


(俺が? なんだろう?)


 首をかしげていると、彼女ははにかむような顔になって、


「いっちゃんが、帰って来てるってきいたから。うん……会いに、きちゃった」


 そう言った。


「迷惑だった、かな?」

「いや……迷惑とかじゃ」


 むしろ、おまえがしんどかっただろうにと続けるかけるが、居心地の悪さに目を背けてしまう。

 十年ぶりに会う幼馴染との距離感を、彼はどうにも測りかねていた。


「えっと」

「ねえ、いっちゃん」


 戸惑う一可を遮り、悠莉は尋ねる。

 首を少しだけ傾け、さらりと髪を流しながら、上目づかいに、問いかける。


「やくそく、まだ――覚えてくれてる?」

「――――」


 忘れた日など、一日たりともない。

 一可は、そう思った。

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