02 猫と老人と着物の――
日帰りで、一可は帰るつもりでいた。
仕事が押していたというわけではない。
理解ある上司は、祖母の葬儀だと正直に告げた一可に、今週いっぱいは出勤してこなくていい、抜けた穴はこちらでなんとかするとまで言ってくれていた。
昨今ではブラック企業ばかりが取りざたされるが、なかにはこんな優しい会社もあるのだと、一可はなんだか誇らしくかった。
それでも、日帰りを望んでいたことにはわけがある。
彼には目下のところ付き合っている女性がおり、数日後には彼女――
だから彼は早く帰りたかった。
しかし、その願いはかなわずに終わった。
骨を拾い、骨壺に収め、火葬場から村へと戻った彼を待っていたのは、大々的な酒宴だった。
夜を徹しての大宴会。
奇妙に明るく振る舞う親族と、時間が経つごとに増える村人。
自家用車で玖契村までやってきた一可は、飲酒を避け続けていた。
それでもあいさつ回りの先で、ノンアルコールだからと押し切られた炭酸が、ただのビールだったと気が付いたときにはもう遅かった。
酔いが、総身に回っていた。
もとよりアルコールに強い体質でもない。
酔っぱらってしまっては、自分で運転できない。
車を置いてバスで戻ろうにも、日に2本しか走らないバスは運行を終えている。
誰かに送ってもらうことも考えたが、表面上こそ気さくにふるまう親族の一同が、しかし胸の奥では誰もが美千代の死を悼み、アルコールに溺れている状態なのだと思うと、どうにも言いだしづらかった。
(朝一で帰ればいいか……)
いつの間にか、そんな諦めが巣食っていた。
そうして飲み明かしての翌朝、二日酔いとともに早々と目を覚ました一可は、なんとか頭をはっきりさせるべく、家人たちがまだ寝静まったままの屋敷から抜け出した。
なんとか今日中には帰るつもりだったから、迎え酒などとんでもないと、持参したペットボトルの水を口にしつつ、彼は酔い覚ましに、祖母が大半の人生を過ごした屋敷の周囲を散策することにした。
朝焼けのなかで、それはなおさら顕著で、なにやら得体のしれないものが、ひょいっと顔を覗かせて来そうな、そんな奇怪さがにじみ出ていた。
セミの声がやけに遠い。
夏場特有、田舎特有のむせ返るような草木の
玖契村は大きな盆地の中にある。
山間の盆地という特異な地形が、いっそう山野の匂いを強く閉じ込めているのだ。
そんな濃い緑の香りに混じって、ふわりとよい匂いが鼻先をくすぐる。
花のような、果物のような香り。
なんとはなしに、一可が視線を転じると、そこに猫がいた。
白猫。
彼が葬儀場で視た、あの赤目の猫だった。
それが、木陰の中にうずくまっているのだった。
(こいつ……飼い猫だったのか?)
その優雅な喉元には首輪がはまっている。
昨日は無かったはずのものに一可が困惑し、訝しげに見つめていると、猫も気が付いたようでゆっくりと顔をあげる。
交錯する、一瞬の視線。
「あ、おい!」
止める間もなく、猫は貴婦人のような動作でスクッと立ち上がると、足音も立てずに歩きだしてしまった。
去っていく猫。
なんとなく、一可はそのあとを追いかける。
猫はときおり振り返り、彼を見て「なーご」と鳴く。それが、一可には自分を呼んでいるように見えて。
「……なんだ、こいつ」
とととと、と小気味よく歩く猫の後ろを、だいの大人が
手に持った水に口をつけつつ、茫洋と、自分はなにをしているのだろうかと彼が煩悶とし始めたころ、やがて猫は一軒の家屋の前で足を止めた。
村の外れに位置する、二階建ての一戸建て。
庭などはないが、その分面積は大きく、美千代の生家にも劣らないように見えた。
ただ、見渡すと近隣に家はなく完全に孤立しているので、上手いように彼には比較することが出来なかった。
視線をあげる。
二階の窓は閉め切られ、ぴしゃりと
猫はカリカリ、カリカリと、その家の玄関を――ガラスが組まれた引き戸に爪を立てているのだった。
「おまえ、ひとさまの家にそういうことするなよ。傷が付いたら怒られんぞ」
猫は猫、畜生はしょせん畜生かと、それまで白猫に言い知れない不気味なものを感じていた一可は、小動物そのものの振る舞いを見て安堵に顔をほころばせる。
しかし猫は一向に引っ掻くのやめようとしないので、彼はため息を吐きつつ、一歩を踏みだした。
――そのときだった。
がらり。
重たい音を立てて、引き戸が開く。
ぬっと、扉の向こうの暗がり――そこに僅かにひらいた隙間の
枯れ木のように細いそれは、先端が五つに分かれている。
(――手だ)
一可が〝それ〟を認識するまでには、相当な時間を必要とした。
それほどまでに、その手は痩せ細っていて、とても人間のものとは思えなかったのである。
嫌がるそぶりも見せず、白猫はされるがままになっている。
がらり。
また音が鳴る。
扉が、いっそうひらいた。
中から現れた人物を見て、一可はあっと声をあげそうになった。
落ち
血色の悪い肌。
毛髪の一本もない、シミの浮いた
一滴の水分もないように涸れた体に、ボロ布を纏っているだけのような痩せぎすの老人が、険しい表情でそこに立っているのだ。
(まるで、ミイラみたいじゃないか……)
そんな言葉が口を突きそうになり、一可は慌てて口を押さえるが、その間にも老人は猫を胸に抱きあげ、踵を返して家屋の中に戻ろうとする。
不意に、その足がぴたりと止まった。
ジッと、時が止まったように老人は動かない。
一可はどうすればいいのかわからず、ただ老人の背中を見ている。
「
「――え?」
「おまえ、近衞の孫だろ。
ぴしゃり。
そんな、
あとに残された一可は、ただただ困惑し、眉を
彼の頭上に、影が落ちた。
視線を上げれば、空には暗雲が立ち込め、いまにも雨が降り出しそうになっている。
(こりゃ……帰れそうにないぞ)
玖契村へと続く道は、曇天になれば土砂崩れの可能性もある。
溜息とともに彼が祖母の生家に戻ろうとしたとき、視界の
曇天。
一軒家。
二階の紗幕が、スッと開く。
息を呑んだ。
彼が、そこで目にしたのは、
(――微笑する、黒い着物の少女)
それは美しく、だけれど少女と呼ぶには、相貌にわずかな違和感を覚えて。
けれど彼が息を呑んだのは〝赤〟を視たから。
違和感を圧倒的に凌駕する、塗り潰すように鮮烈な〝赤〟。
小柄な着物の人物の、その右目だけが、焼け
「――――」
ポツリと、彼の鼻先でしずくが弾けた。
生温い雨が、降りだしはじめていた。
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